「実質ゼロ」「Tank to Wheel」は、厳密には原油消費を一定量残すCO2排出の抜け道。

 1992年のリオデジャネイロでの会合から、もうじき30年が経過します。この間、世界は京都議定書、パリ協定などを通じて、環境問題を議論し続けてきました。そして現在、残業、はんこ、紙、通勤など一定の無駄を省くことが進みやすいコロナ禍にあって、環境問題を悪化させる温室効果ガスという「無駄」もまた、社会から省かれるべき存在として、これまでにも増して強く認識されるようになったと感じます。

 こうした中、「野心的な目標」を掲げる上で、各国・企業はどのようなことを重視しているのでしょうか。「持続可能な社会」という言葉を耳にするようになって久しいですが、特に資本主義的な考え方をもとに成長を実現した先進国や企業においては、そのほとんどが「持続可能=発展し続ける(もうけ続ける)」という構図を描いていると考えられます。

 もうけ続けることと、環境に配慮することは、同じ方向を向いているのでしょうか。必ずしもそうでない国や企業もあるでしょう。また、今はむずかしくても、数十年たった時、それらが同じ方向を向いている国や企業もあるでしょう。

 世界中の多くの国や企業が環境配慮を進める中で、それぞれが目標を達成する(もうけながら環境配慮を達成する)までの時間は、同一ではありません。必要なのは、目標を達成するまでの、一定の緩衝策(バッファ)だと、筆者は考えています。悪く言えば「抜け道」です。

 昨今の環境問題を報じる記事のほとんどに、温室効果ガスの排出量を「実質ゼロ」にすると書かれています。また、大手自動車メーカーの会見でも見られた「Tank to Wheel」という考え方もその一つです。例えば、自動車業界においては、以下のようになります。

図:自動車における温暖化ガス削減「2つの抜け道」

出所:各種資料を基に筆者作成

「実質ゼロ」に関連し、以下のとおり、温室効果ガス(主に二酸化炭素)の排出権の先物価格は、急上昇しています。これは、排出できる権利の売買が活発になっていることを意味します。平たく言えば、排出せざるを得ない組織が、排出しなくても存在できる組織から、排出してもよい権利を融通してもらっている規模が拡大しているわけです。温室効果ガスの排出権取引は、ある意味、「実質ゼロ」の切り札の一つと言えるでしょう。

図:欧州インターコンチネンタル取引所の排出権先物価格 単位:ユーロ/トン

出所:ブルームバーグのデータより筆者作成

 トランプ大統領のパリ協定脱退宣言以降、新型コロナの感染が拡大する前まで、価格の上昇が目立ちました。米国が同協定を脱退したことで、温室効果ガスを排出する企業が増え、排出量が増えてしまった場合への対策のため、排出権を融通する需要が高まる観測が浮上したことが一因とみられます。

 新型コロナショック時は、世界経済の停滞懸念から一時的に下落したものの、現在は上昇が目立っています。バイデン大統領のパリ協定復帰宣言が一因とみられます。排出削減ルールの厳格化が見込まれる中、排出した量を相殺する(帳消しにする)ため、排出権を融通する需要が高まる観測が浮上していることが、一因とみられます。

「Tank to Wheel」については、自動車の燃料タンク(Tank)に燃料が充填してある状態からタイヤ(Wheel)が駆動し終えるまでの間に、つまり、「走行時に」いかにして温室効果ガスを排出しないようにするのかに、主眼が置かれています。

 一方、「走行時」だけでなく、燃料の掘削(油井:Well)からタイヤ(Wheel)を範囲とした「Well to Wheel」や、それよりもさらに広い、部品調達や廃棄、リサイクルまでをも網羅した「Life Cycle Assessment」などの考え方もあります。

 言い換えれば、「Tank to Wheel」は、燃料の掘削や輸送、あるいは部品調達や廃棄、リサイクルなどの「走行時」以外の分野を網羅していないことになります。この点は、EV(電気自動車)に充填する電気がどこで作られたのか、の議論がなされないケースに似ています。

「お金を出して排出権を購入すればよい」「走行時だけ排出しなければよい」という、いわば逃げ道が残っている点は、温室効果ガス削減を議論する上で、避けてはならない、非常に重要な点だと、筆者は考えています。

 先述のとおり、これらの「逃げ道」は、温室効果ガスの削減目標を達成するまでの、一定の緩衝策(バッファ)だと、筆者は考えています。未来永劫、「逃げ道」が存在することは望ましいことではありません。

 しかし、それでも、特に資本主義社会において、ほとんどの国や企業が目指す、「温室効果ガスを削減しながら、発展し続ける(もうけ続ける)こと」を、達成するためには、長期的に、緩衝策(バッファ)を使い続けることは、やむを得ないのかもしれません。