日常語の「期待」と経済用語の「期待」

 言葉によっては、そのニュアンスが文脈によって変化することがあるが、投資家にとって馴染みの深い「期待」という言葉もその一例だろう。

 日常使う言葉での「期待」や「期待する」は、将来に関して話者にとってポジティブな出来事を「希望する」意味で使われることが多いように思う。

「代表チームの活躍を期待する」(スポーツファン)、「我が党の政策に期待して下さい」(選挙演説の話者)、「子供が老後の面倒を見てくれることを期待しています」(子供の親)、といった具合だ。何れにしても、「将来起きて欲しいこと」に注意が向いている。

 ところが、経済学のテキストなどを見ると、期待という言葉に「起きて欲しいこと」のニュアンスが伴っていないことに戸惑いを覚えることがある。

「需要に対する生産者の期待形成」、「物価への期待の消費行動への影響」、「中央銀行の政策に対する期待が金利に影響を与える」、といった文章で「期待」は、話者の希望は脇に置いた「(中立な)予想」の意味で読まないと正確に意味を取ることが出来ない。生産者が需要が旺盛であることを望むだろうとか、消費者が物価の下落を望むだろうとか、中央銀行が誰かの何らかのリクエストに応えるか否かといった読み方をすると、文脈上の不整合に陥るだろう。

 日常語の「期待」に慣れている人は、経済の、特に経済学の文脈では「期待」を、「予想」あるいは「予期」などと意識的に読み替える必要がある。

 また、需要にせよ物価にせよ、期待の対象はしばしば一定ではなく数値としては大小の変動を伴う変数だ。この場合、一言で「期待」として言い表されるものは生産者の多くの想定の中心値だったり、消費者の平均的な予想であったりする。こうした「期待」の使い方を見ると、統計学の初歩で出てくる「期待値」という言葉が持っている「(加重平均された)平均値」に近いニュアンスで「期待」が使われている場合が少なくないことに気づく。

 経済の文脈で「期待」という言葉が出てきた場合、先ずは「予想」、次に何らかの「期待値」を指すのだとイメージするとスムーズに読める場合が多い。

 ただ、例えば投資の入門書のような、一方で日常的でもあり他方で経済の話に首を突っ込んだ文脈では、「株式のリターンは、無リスクの金利に5%〜6%を加えたくらいのものが期待出来ると言われています」という具合に、経済学風の「期待」について語りながら、ニュアンスとして読者の希望が叶う「期待」を忍び込ませるような、些か紛らわしい書き方をする場合がある(筆者の本にもあるかも知れない)。「期待」が名詞としてではなく、動詞として使われている時には注意が必要な場合があるように思われる。

 投資の文脈では、そこで使われている「期待」が何を指すのか、具体的にどのように求められるものなのかについて注意が必要な場合が多いと申し上げておく。