超重量級の質問

 先日、トウシルの編集部に筆者宛のQ&Aの質問を募集して貰った。

 実は、質問に答えて文章を書く形式は気に入っている。かつて、「週刊朝日」や「News Picks」などで人生相談の連載を持っていたことがあるし、作家の村上龍さんが編集していた「JMM」(Japan mail Media)というメールマガジンで、村上氏の質問に答える回答者の一人を長年やっていたこともある。

 この種の質問に対する回答は、たいていの場合質問文を手掛かりに文章を書き始めると何とかなるのだが、時に、質問の重要性は分かるのに、答えが全く分からなくて考え込むような「超重量級の質問」が来る場合がある。

 今回取り上げる質問は、その種のものだ。しかも、質問者がさるメディアの編集責任者を務める知り合いなので、スルーする訳にもいかない。

「世の中には、お金よりも大事なものがあるのは明らかだが、具体的にどうやったらそれに気づくことができるのだ?」というのが質問の大意だ。以下の質問文を読んでみて欲しいが、回答の逃げ道を予め塞ぐような訊き方だ。

 難問である。しかし、答えられないのは悔しい。

 筆者は、考え込んだ。

【質問】

 お金はないより、あったほうがいい。でも、もっと大事なものがあるのもわかっている。わかっているが、そこに重きを置けていない。

 日々は圧倒的に押し寄せて、そのことを考えることを避けさせる。そして、手段と目的の混同に右往左往する。どう立ち止まり、やり直すか。

 ここがお金の呪縛から逃れるための、本当の意味での鍵であるような気がする。健康やライフイベントの変化だけが、見直しのきっかけでは、後悔しそうだ。強制的に、ターニングする方法はないものか。

 一連の山崎さんの発信を見て、「自分の仕事とはなんぞや」と思うことが増えました。金融に特化した編集者、メディアの作り手ではあるものの、なんのための「金」の情報なのか。目的と手段を混同させているのは、自分たちだったりするのではないか?と思ったりもします。

「お金の呪縛」とは?

 お金は大切だ。誰も異論はない。お金よりも、あるいは少なくともお金と同等以上に大切なものがある。これも、頭では分かる。しかし、お金が先に意識にある時に、お金よりも大切なものに気づくことは容易ではない。

 それは、お金には、複数の「厄介な性質」があるからだ。「お金の呪縛」に立ち向かうには、先ず、この点に向き合うことが大事だろう。

(1)比較尺度としての貨幣

 お金、少し気取っていうと貨幣の機能の一つとして「価値の尺度」が一般によく挙げられる。先ず、この機能があまりに広範囲に応用可能で、且つ強力すぎる。

 物でも、サービスでも、不動産でも、親切でも、時間でも、たいていのものは、お金に換算して価値を比較することが出来る。そして、この比較は、ついには、人間と人間の比較にも当てはめることさえ出来る。

 例えば、人は、自分の年収を他人の年収と比較する時にどきどきする。年収の多い人ほど、他人にたくさん貢献しているのだという価値判断が一応は可能だ。「君のお父さんは、ウチのお父さんよりも年収が低いから、社会への貢献は小さいね」と言うませた小学生がいた時に、この子の同級生は的確に反論できるだろうか。同級生だけでなく、子供たちの先生は、適切な説明が出来るだろうか。「ませた子供に」言い負かされる先生がいるのではないかと心配だ。

 ビジネスパーソンにとっても、価値の比較尺度としての貨幣は、各種の意思決定を合理的に行う上で便利な概念でありツールでもある。

 貨幣は、価値観を包摂してしまう。これに抵抗するには、強い「きっかけ」が必要だ。

(2)「貨幣の物神性」

 貨幣は、これを持っていると、(ほぼ)何でも買える、ある種の神のごとき特殊な商品だ。一方、労働力は、労働者が自分の労働力を買って貰えなければ、何も手に入れることが出来ない性質の商品である。労働者は貨幣に執着するようになり、労働力を安く売ってでもこれを手に入れようとする。

 かつて、カール・マルクスが「貨幣の物神性」(「資本論」の訳によっては「貨幣へのフェティシズム」と訳すものもあるようだ)と呼んだ、商品としての貨幣の特別な性質だ。

 貨幣を持たないと安心できないし、幾ら持っていたら安心だという基準もない。貨幣への欲望には際限がない。アンパンはお腹が一杯になって明日、明後日くらいの分が十分あればもう要らないが、お金は際限なく幾らでも欲しいし、足りないと思うと何を措いても心配だ。

(3)貨幣愛が生む需要不足

 貨幣愛は、マクロ経済的な問題を引き起こすことさえある。人は、将来が不安になると貨幣をより多く保有したいと思うようになる。そして、不況になると、不安が増すから、ますます貨幣保有への需要は高まる。

 すると、本来なら商品への需要として経済を循環するはずだった需要が貨幣として抱え込まれる分だけ、一層の需要不足を生んで、景気の悪化がさらに進むことになる。

 日銀は金融緩和しているつもりなのに(「黒田以前」には、実際には足りていなかったのだが)、お金が預金に滞留して、これが日銀の当座預金に積み上がって市中に出回らない現象が、デフレ時代のわが国には起きた。

 このように、お金=貨幣は、時に不必要なまでに強力であり、いったん意識に上ると、ここから脱した価値観を持つことが難しい。

意識転換のスイッチは「怒り」

 では、意識を切り替えるブレークスルーはないのか。考えること、しばし、自分でも驚いたことに一般的な手段があった。

 以下、質問に対する回答のモードで答えることにする。

【回答】

 ご質問は、難問でした。しかし、熟慮の結果正解に辿り着いたと思っています。

「お金よりも大切なもの」に気づく手段、それは、「怒り」でした。自分でも少々驚いたのですが、これ以外に答えがありません。

 以下、どういうことかご説明しましょう。

 お金の損得はいったん意識に上ると、そこを離れることが難しいし、行動に当たって意思決定する時に直ちにその価値観が起動される厄介な性質を持っています。

 これを払拭できるのは、ふつふつと湧き上がる「怒り」の感情だけです。切り替えのスイッチには、これを使うしかない。

「こんなことが許されてたまるか」、「私のことを何だと思っているんだ」、「俺のことを舐めるなよ」、「やっていられない!」といった、時には野卑な生の感情です。

「怒り」が「損得」を上回った時に、人は、損得を離れて、損得以上に大切なものに目を向けることが出来ます。

 筆者の個人的な過去に目を向けると、筆者が最も自分の経済・金銭的な損得に反するにもかかわらず、リスクを取って「もっと大事なもの」に賭けたのは、住友信託銀行に勤めていた30代のはじめに、会社及び信託銀行業界の、主にファンドトラストによる顧客間の利益の大規模な付け替えを、世間に向かって内部告発した時でしょう。

 当時の職場を自分では大変気に入っていたし、会社も私が内部告発していることが何れ分かるのだから、生活をリスクに晒す行動でもありました。しかし、許せなかった。

 最初は、業界誌に匿名のコラムを書いて警鐘を鳴らして、「これで止まってくれるといいなあ」と思ったのですが、そうはならなかった。

 その後、自分で考えました。これは、喧嘩だとすると、どちらが正しい?

 結論は、自分が正しい。だから、可能なギリギリまで自分は降りてはいけないと思いました。

 最終的には、当時の社会党の議員さんに国会で質問させるところまで持っていったのですが、当時の大蔵省銀行局長と自民党の有力政治家(故金丸信さんと聞いています)の間で、言わば金庫番とも言うべき信託銀行が、顧客の利益を大規模に付け替える泥棒のような行為をしていたというのでは、問題が大きすぎると判断して握りつぶすことにしたのだと、後からジャーナリストの友達に聞きました。

 残念ながら、当時の筆者には、その先に、自分の名前を出して告発するところまでは出来ませんでした。金融業界ではもう食っていけなくなると思ったし、家族の生活を抱えていたからです。これが、当時の私の力量的な限界でした。

 告発は、結果的に不発でした。気に入っていた職場を捨てて、外資系の運用会社に転職しました。

 顧客の勘定どうしの利益の付け替えは、誤魔化しであると同時に、もちろん正義に反する。そう思いましたし、住友信託の後輩たちに是非言っておきたいのは、「こんなことが、続けられるはずがない」との会社の将来を思う気持ちもありました。そして、その後の事実の推移を見ると、この判断は間違っていなかった。信託銀行各社は顧客と利回り保証の履行を巡って水面下で大いに揉めることになりました。

 一連の経緯を振り返ると、私があたかも強い正義感の持ち主であったかのようですが、残念ながら、それは事実と異なります。

 私の告発のモチベーションは、ファンドマネージャーとしての「職業人として」、自分は利回り保証、パフォーマンスの誤魔化し、顧客の利益の盗み出しを許すことが出来なかったということなのでした。敢えて、分類すると、「俺を舐めるなよ」という個人的な怒りが告発の根底にありました。

 住友信託銀行は、私にとって、4社目の勤務先でした。その職場で、私は生え抜きの住友信託マンではない。どうしても「外様」的な立ち位置になります。最終的に、12回転職を重ねて、3メガグループでいうと、三菱、住友、みずほの3グループ全ての会社に勤めることになりましたが、自分のアイデンティティを勤め先の会社に持つことは出来ませんでした。自分は、「ファンドマネージャーとして」、職業人としてプライドを持っているのだという理解が、自分の心の支えだったのです。従って、個人的な「プライド」がこの行動のきっかけでした。

 一個人のプライドがきっかけではありましたが、「お金よりも大事なこと」に気づくきっかけにはなったと思います。

 このケース以外にも、大小の「自分には損なこと」を何度か選んだ記憶がある人生でしたが、何れも、きっかけは「怒り」です。「怒り」が、損得を忘れさせて、考えをリセットするスイッチになりました。

 人間に怒りという感情があるのはこのためなのだ、というような独自の進化論を唱えようとまでは思いませんし、品のいい感情だとも思わないのですが、「怒り」が唯一のきっかけであり手段でした。

 この答えには、自分でも少々驚いています。

「怒り」を「変換」せよ

 さて、「怒り」は多分唯一有効なリセットスイッチなのですが、このスイッチには、取り扱い上の重要な注意事項があります。

 それは、いつまでも「怒り」を理由のままにして置いてはいけないということです。なぜか。

 そもそも、怒っているという状態が精神的に貧しくて残念だ、ということの外に、現実的な理由があります。端的に言って、怒っている状態は、自分の精神のコントロールを失っている状態なので、判断を間違えやすい。「怒り」の状態そのままで、物事を判断するのは危険です。

「怒り」は、そのままにしておくのではなくて、もっと安定しうる妥当な判断の理由に変換する必要があります。具体的には、「信用」や「共感」、ぎりぎり許せる理由として「プライド」辺りまで変換しておかないと、安心できないし、真の正解に辿り着いたとは言えないでしょう。

 大げさな喩えで恐縮ですが、「怒り」は伝わりやすいので、怒りで革命をすることはできる。しかし、「怒り」だけで、革命後の国を治めることは出来ないのです。自分の「信用」こそが大切なのだと思う国民が必要だし、国民同士が「共感」できるような社会が必要です。

 因みに、近年のツイッターは、この「怒り」だけをぶつけ合って罵り合うような、殺伐とした空間になってしまったように思います。今や、「X」は告知と最低限の連絡ぐらいにしか使う気の起きない場になりました。イーロン・マスク氏に何とかして貰いたいところですが、いかにも心許ないなあ。

 お金の損得よりも大事なものに気づくスイッチは「怒り」です。しかし、「怒り」はそのままにしておいてはいけない。何らかの妥当な理由に変換する必要がある、ということを私の答えにしたいと思います。

 だから、我々は、怒りに対する感度を高く保つ必要があります。必要な時には「正しく怒る!」用意がなければなりません。鈍感は、美徳ではありません。

 しかし、いつまでも怒っていてはいけない。

 こう心掛けることで、例えば、お金で考えた損得としては損であっても、自分が持っている「信用」の方が大切だ、といったことに気づくことが出来るようになるのではないでしょうか。

 これが、今回の難問に対する、私の回答です。