平成30年の年末を迎えた。「平成」という元号は来年5月に変わるので、平成最後の年末である。今回は、平成がどのような時代だったか振り返ってみることにしよう。
「経済」の上で、平成はバブル及びその崩壊の歴史だった。バブルは大きいものが2つと小さいものが1つの合計3つあったが、それぞれ独特の影響を残した。政治的には権力の集中と離散のサイクルが1サイクル循環したように思う。生活と商品は「モノ」から「情報」に中心が変化した。そして、金融は自由化と効率化が進んだ分野と停滞が覆い隠せなくなった分野に分かれ、「まだら模様」の時代に見える。
順に見ていこう。
「バブル」の始末に追われた30年間。なぜ、日本は回復が遅れたのか
平成は1989年に始まった。この年、昭和から引き継いだバブルを仕上げて平成が開幕する。年末に付けた日経平均株価の3万8,915円の史上最高値は、投資家ならよくご存知の数字だろう。
日本のバブルは、1985年からの日銀の金融緩和、ブラックマンデーの後の財政拡張、「土地神話」と不動産開発融資の拡大、利回り保証などの違法行為を伴ったいわゆる「財テク」(企業の株式運用)、株価の高値を無理に正当化しようとした「Qレシオ」といった珍説など、マネーと欲望の膨張に不正を伴う逸脱行為など、典型的バブルが備える特徴を全て備えた世界に誇るべき(?)「完全なるバブル」だった。
崩壊後の金融システムの危機や不良債権問題なども含めて、このバブルの推移は研究に値する。サブプライム問題に端を発してリーマンショックから世界金融危機に至った後の世界的大バブルも、ほぼ同じパターンを辿ったと言っていいだろう。ただし、リーマンショック後の米欧は日本よりも経済政策を上手くやったので、回復が早かった。病気は同じだったが、医者の差が出た。
さて、平成2年目の、1990年の年初から坂道を転げ落ちるように株価が下落した。バブルの崩壊が始まったのだ。もっとも株価が下がっても経済には余熱が残っており、急に世の中が暗転した訳ではなかった。
バブルの象徴として語られることの多いかのジュリアナ東京の営業開始は1991年の5月である。振り返ってみると、宴が終わった後に二次会で大騒ぎをしたような案配だった。
後の教訓として、不動産価格と地価は株価が下落してしばらくしてから下落に転じたことを覚えておこう。
平成の残り2つのバブルは1990年代末から2000年にかけての「ネットバブル」と、2007年のサブプライム問題から始まって2008年のリーマンショックに至った「世界金融危機」のバブルの2つで、いずれも米国を中心とする外国の経済に日本経済が巻き込まれるように影響を受けた。
「米国が風邪を引くと、日本も必ず風邪を引く」ような経済構造は当面、已む(やむ)を得ないが、共に、平成初頭のバブル崩壊の影響を克服できない状況で巻き添えを食ったのでそれなりに痛手だった。
日本でバブルの克服に時間が掛かった理由は、経済政策的には、
(1)不良債権の認識と処理に時間を掛けすぎた
(2)金融緩和が不十分だった
(3)悪いタイミングでの消費税率引き上げなど財政政策が不適切だった
この3点に求められるだろう。経済政策にご興味のある方は研究してほしい。
加えて、民間経済も、
(1)「モノづくり」にこだわって「情報経済」で遅れを取った
(2)有能な人材が既存企業の居心地の良さに安住してリスクテイクに消極的だった
など、気が付いてみると日本のビジネスは先進国の世界標準に遅れを取る状況になっている。
今後巻き返すためには、企業も国も、研究開発と教育投資に他の先進国の5割増しくらいの比率でリソースを割くしかないはずなのだが、目下、そうした機運にはなっていない。
もっとも、個人が自分に教育投資する機会は大いに開かれているし、起業するのも転職するのも外国に行くのも自由だ。日本に居てヤル気のある個人は、周囲のペースに関係無く有効な「投資」を行えばいい。