私の投資観その2「他の市場参加者に相対的に勝つことが投資だ」

 株式を運用するファンドマネージャーになって、直接的な目的はベンチマークであるTOPIXに勝るパフォーマンスを上げることとなった。100%正確な表現ではないが「プラスα」の獲得が狙いとなる1。ただし、より詳細には、同業他社の同類ファンドに勝つことや、社内の同僚であるファンドマネージャー達に勝つことが「もう一つの実質的なベンチマーク」であり、この辺の微妙な競争行動は運用というゲームを語る上で掘り下げる余地のあるテーマなのだが、今回は触れない。

「TOPIXに勝つ」が簡単ではないことについては、既に多くの研究が積み上がっていたし、運用業界にいるとよく分かることだったが、実際にファンドを持って、毎日の時価の変動を複数のインデックスと較べて、良し悪しの要因を分析する作業がルーティーンになると、独特の緊張感を伴っていた。

「努力しても必ず勝てるとは限らないが、この仕事に就いた以上はやってみるしかない」という気持ちだった。

 では、どうするか?

 ファンダメンタル分析に力を入れるオーソドックスな方法に期待を持たなかったのは、他社も含めて周囲の人々の失敗をよく見ていたことと、運用者やアナリストごときがビジネスの機微を分かって評価出来ると考えるのは傲慢な勘違いだろうと論理的に思えたことが直接的な理由だった。「平均的にはベンチマークに勝つことに失敗している彼らの裏をかくこと」が有望な方法だと思えた。

 一方、米国を中心とするファイナンスの研究では、1970年代までの効率的市場仮説全盛への反動とβ万能論への批判から、小型株効果、アーニング・サプライズ効果、低PBR効果、リターンリバーサルなどのいわゆる「アノマリー現象」の研究が積み上がってきていて、1980年代から1990年代にかけてこれが行動ファイナンスへと発展していく過程にあった。

 アノマリー現象は「このような方法でポートフォリオを作ると、ベンチマークよりも優れたリスク対リターン特性が得られた」という形の実証研究を伴うので、米国の例を日本に焼き直してデータを調べてみて、実際試すという方法が可能だった。

 こうした当時の研究論文に基づくアイデアをアレンジしながら組み合わせて実際のファンド運用で試してみた訳だが、方法を選ぶ際の決め手は、過去のデータに基づくバックテストの良し悪しよりも、「この方法でのプラスαを供給してくれる失敗者の存在にリアリティはあるか?」という定性的な状況判断だった。

 正直に言うと、投資対象企業はポートフォリオを作るための特性を持った部品に過ぎないので、あまりよく見ていなかった。他社及び同僚のファンドマネージャー、証券会社、さらにはまとまって行動しそうな場合には個人投資家など「他の投資家」の様子の方に何倍もの関心を注いでいた。

 主にαを獲得するゲームにあっては、他の市場参加者の上方に対する「見落とし」・「過剰反応」或いは、好みの偏りによる「評価のミス」を見つけて、これを逆用することが戦略の中心として自然であるように思えた。

 相対的なパフォーマンス競争の「ゲームの中」にいる当事者にとっては、他の市場参加者に勝つことが投資という行為の中心的な目的だった。今にして思うと我ながら案外真面目な職業人だが、視野が狭くて、投資に対する考え方としては凡庸の域を出ていないと自己評価する。

 尚、αを獲得するゲームは、幸か不幸か当事者としては毎回上手く行ったが、その時々の実感として、「今回は幸い上手く行ったけれども、来年は自信がない」という心境の連続だった。研究を深めたら、より上手く行くだろうとの実感は持った事がない。


1プラスのアクティブリターン獲得のためには、β=1を適切にずらすことによる対ベンチマーク・リターンの獲得があり得る。但し、βを調節するマーケット・タイミング運用はリスクの振れ幅が大きいし、業界経験的にあまり上手く行かない。

転換のきっかけ2 「ゲームの外側」に出て感じた変化

 株式ポートフォリオを直接自分で運用する仕事を離れて、運用会社でも企画的な部門の仕事に関わったり、運用委員会の委員として年金基金に関わったり、加えて個人向けの運用方法を考えたりするようになった。

 先ず、「プラスαの獲得」が当事者として興味深いゲームであっても、第三者から見て全くあてになるものではないことがより良く分かった。また、運用計画の策定にあって、「α」よりも「β」(≒ベンチマークのリターンへの感応度)が圧倒的に重要であることが分かって、言わば資産運用について見える景色が変化した。

 例えば、大きな年金基金の運用にあって、日本株のアクティブ運用に資金の一部を委託することは、はっきり言って無駄な手間である。運用委員からはそう見える。しかし、運用の現場の職員から見ると、アクティブ運用を全くやらなくなると仕事が減ってしまうし、運用会社など外部との接触が減ってしまう。

 大きな基金の運用委員会にあって、筆者は、「本当は、当基金にあってアクティブ運用は一切要らないとも思うのですが」と付け加えつつも、アクティブ運用を一切止めろとまでは言わなかった。

 運用に対する考え方としては、明らかに妥協したのであり、現実的ではあったと思うが、後から「これで良かったのだ」と言える自信は全くない。

 ともかく、αを獲得するゼロサム・ゲーム(αの定義により市場全体の合計はゼロだ)の外側に出てみると、「投資」というものがそれまでとかなりちがって見えるようになった。自分が当事者だったそのゲームは、かつてほど魅力的でわくわくするものではなくなった。

私の投資観その3 「投資はリスクプレミアムのコレクション作業だ」

 現在の筆者の「投資」に対する見方は、投資とは、リスクを取って資本を提供してリスクプレミアムを集める作業だというものだ。はっきりと自覚したのがいつなのかは定かでないが、近年はずっとそう思っている。

 このことを強く意識するようになった背景には、あまり上品な話ではないが、正直に言って他人に対する批判的な意見が2つ影響している。

 一つは、FX(外国為替証拠金取引)のような将来の価格を当てるゼロサム・ゲーム的なリスクテイクと、株式や不動産のような資本を提供する際のリスクテイクとでは、経済的な性質が異なることに気づいたことだ。これは、比較的早くファンドマネージャー時代から気がついていた。

 FXや商品先物のような投機は、それ自体が悪いわけではないが、リスクはあるがリスクプレミアムの獲得は期待できないので、長期的な資産形成の手段には適さない。

 他方、株式投資であれば、市場で株価が形成される際にリスクプレミアムが織り込まれることによって、投資家はリスクプレミアムの獲得を期待できる。両者の差は決定的だ。この差を分からない人には、それを分からせたいし、分かっていながら敢えて混同して「FXも投資である」というようなことを言っている業者は批判に値する。「投資」と「投機」はこのように区別するべきだ、という考えが生まれて、強化された。

 もう一つには、株式投資は企業や経済の成長に賭けてリターンを得ようとする行為だという素朴だが正確ではない理解を持っている人たちを、自らの誤りに気づかせたいと思う、多少意地悪でお節介の気持ちが湧いた。

 利益成長率がゼロでもマイナスでも、株式は、その情報が正しくプライシングされていれば、その株価で投資した場合にリスクプレミアムを生む理屈である。

 株式投資を「リスクプレミアムのコレクション」と整理してみると、「長期」「分散」「低コスト」の3原則が有効であり重要であることがスッキリ説明できて極めて都合がいい。

 また、どうやら経済全体として、「リスクを取りたくない人」が「リスクを取る人」に利益を提供する構造になっていて、その現在最も有力なチャネルが株式であるように思われる。

 因みに、かつて熱心な追及の対象だった「プラスα獲得のゲーム」は「運用競争では、ライバルの平均を持ってじっとしていることが有利である」という「平均投資有利の原則」に照らしてみると、真剣に参加することがいくらか残念で、また社会的にも些か無駄な努力のように見える。アクティブ運用の正しい位置づけは、「趣味の世界」か「少数の例外的な人達どうしが合意の上で行うビジネス」であるように思う。大多数の「運用が、仕事でも趣味でもない人には無駄」が目下の結論だ。

 個人的には、「自分で行う」アクティブ運用は個人のいい趣味になり得ると思っているのだが、来年から新NISAが始まって投資家の裾野の拡がりが期待される現状では、先ずは一人でも多くの投資家に、リスクプレミアムのコレクションとしての投資の合理的な方法を伝える事が大事だと思っている。