そもそも「溝」は埋まらない?

 そもそも「溝」がある状態とは、どのような状態なのでしょうか。

 筆者は以下のように考えています。「異なる考えを持つ2者以上が存在している状態」であり「当たり前の状態」だと考えます。

 有史以来、世界全体が統一されたことがないという事実を考えれば、「溝」は絶えず、世界のどこかに存在していたことになります。つまり、「溝」がある状態は、当たり前の状態なのです。

 気候変動問題に限らず、もう少し広く「溝がある状態」について考えると以下のようになります。

・消費国と生産国、お互いの譲歩の度合いが低下している状態
 →生産国が生産物を出し渋りして「武器利用」するなど。

・政治・経済など諸分野で、誰かが誰かを、意図的に強くおとしめようとしている状態
 →選挙戦、経済制裁、人権侵害発生時などに顕在化しやすい。

・歴史上の禍根(かこん)が表面化している状態
 →過去の大戦などで生じた禍根をもとに論陣を張る。

・本音をさらけ出す著名人に迎合する一部の大衆がいる状態
 →過激な発言に迎合する人とそうでない人で差が生じる。

 上記に限らず、世界には絶えず、誰かと誰か、何かと何かの間に、無数の「溝」が存在しています。私たちの身近にも「必ず」あります。

 有史以来、「溝」がなくなったことがないのは、経済発展に(特に資本主義国家において)、「溝(余地)」が欠かせない存在だったことが大きいと考えます。

 できない自分と理想とする自分の間にある「溝(余地)」を埋める(0→1の創造)。持っていない自分と持っている相手の間の「溝(余地)」を埋める(シェア争奪)。

 シンプルに言えば、「溝(余地)」を埋めることで資本主義は発展してきたと言えます。逆に言えば、資本主義の発展には「溝」は必要なのです。

 これには、「人が人であること」が強く関わっていると、筆者は考えています。不安なことがあれば安心できるように行動する、自分よりも上のスペックを持つ人をみるとうらやましがる(羨望or嫉妬)、興奮するものを見たら関心を寄せる。

 人はこうした特徴を持つ、単純で感情的な生き物です。

 何かが起きれば、感情の変化をきっかけに何らかの行動を起こすわけですので、行動前と行動後には「溝」があります。

 人は日常的に、大なり小なり「溝埋め」を行っているのです。人の欲望が尽きないのも(溝の先にある次の欲望を満たしたがるのも)、溝埋めの連続の一つと言えるでしょう。先述のとおり、「溝」があるのは、当たり前なのです。

「溝」を作った人・組織が、主導権を握るケースがあることも事実です。一方的に強い人・組織、一方的に弱い人・組織、資源を持っている国、核兵器を持っている国、新しいモノ・コトを生む出す人・組織。

 こうした誰かや何かが計らえば、「溝」を作ることは可能です。「溝」を作るということは、環境や前提などの「ルール」を変え、その分野で主導権を握ることができます(ゲームチェンジャーによる溝の逆利用)。

 上記のように考えれば、「溝」はあって当たり前、必要(時には必要悪)であり、その存在を否定することは、われわれが人である以上、難しいと言えます。気候変動問題に関する「溝」は、存在するものの「それはゼロにはならない」という前提で議論を進めることが必要でしょう。

「全廃」「全停止」「全面禁止」など、化石燃料の消費、化石燃料を燃焼させる車や発電施設の稼働を、「全」が付く言葉で封じる、「溝」をゼロにする議論はそもそも正しくないのかもしれません。

 その意味では、グラスゴーでの石炭使用の「廃止」は、熟考の余地があったのかもしれません。