コストプッシュとディマンドプル

 さて、高校の政治経済の授業を覚えている読者は、インフレには、「コストプッシュ・インフレ」と「ディマンドプル・インフレ」の二種類があったことをご記憶だろう。

 しばし、印象論を許して貰おう。

 米国のインフレは、原油などのエネルギー価格や賃金の上昇が企業のコストを引き上げていてこれが価格に転嫁されるコストプッシュ・インフレと、コロナ対策の金融緩和及び財政支出の拡大がもたらした需要の拡大がもたらしたディマンドプル・インフレの両方が起こっているように見える。

 また、日本が今後直面しそうなインフレは、エネルギーなどの輸入物価の高騰が川下に波及するコストプッシュ・インフレであるように思える。

 コストプッシュ・インフレは、企業がコストを製品価格に十分転嫁できている場合、先の株価の理論式の分子になる一株利益(E)を損なわないが、製品価格への転嫁が十分行えない場合には企業の利益を圧迫する。

 日本の場合、直ちに金融引き締めは行わないと想定されるが、たぶん世界一値上げに厳しい消費者の行動を意識して企業が値上げに慎重であるため、企業の利益が圧迫されることが心配だ。日本の物価形成は些か特殊であることは、覚えておくべきだろう(注:日本の物価形成の特殊性については、渡辺努「物価とは何か」講談社、が大変詳しく、且つ面白いので一読をお勧めする)。

 一方、コストの価格転嫁が日本よりも容易な米国については、ディマンドプルだけでなく、コストプッシュ要因によるインフレ率までFRBが金融引き締めで抑制しようとした場合に、金融の引き締めすぎによって資産価格が大幅に下落する可能性が少々心配だ。

 実は、一見自然に見えるコストプッシュ・インフレは、その発生と継続のメカニズムが案外自明ではない。例えば、エネルギーの供給が不足して値上がりしたとした時に、消費者の予算の制約を考えると、他の財に回す資金が不足して、他の財の需要が落ち込んで価格が下落するので、消費者物価指数に代表されるような「物価全般」が上昇するのか否かは、「需要と供給で物価が決まる」という理論では説明しにくい。

 現実には、それぞれの財の物価にも消費量にもある種の粘着性があり、また消費者も貯蓄を減らす(或いは、取り崩す)ことが可能なので、「原油等の価格上昇で物価はある程度上昇するだろう」と考えることに無理はないと思われるが、日本の消費者は実質的に貧しくなりながら今後来るかも知れない物価上昇を耐えることになりそうだ。適切な経済政策は、貧しくなっている経済に対して金融を引き締めてインフレを抑え込もうとすることではなく、経済的困窮者に対する財政的なサポートを厚くすることだろう。

 本連載は、その時々の、相場を予想したり、経済政策について意見を述べたりすることを目的としていないが、米国における金融引き締めすぎの可能性と資産価格の大幅下落の可能性、日本で一時的に「2%」のインフレ目標を超えた場合に金融政策の転換(金融緩和→金融引き締め)が起こることの2点を「心配」としてあげておく。

今時点で投資家はどうしたらいいか?

 インフレという目新しい材料に対して、投資家は現在どうしたらいいのだろうか。

 大まかには、三つの態度が考えられる。

 先ず、先の原則(5)を思い出そう。現在の株価に、前記の(1)〜(4)の要素が既に織り込まれているとすると、現在の株価の状態で株式を持っているなら、新しいインフレ率を反映したリスクフリー金利にリスクプレミアムを乗せたリターンが期待出来るはずだ。

 市場が常に正しいとは限らないが、「市場よりも、自分の方が正しく今後を予測できる」と考えることには、それが誰であっても無理が伴う。「上げ相場にも、下げ相場にも、全て付き合いながら、長期的にリスクプレミアムを享受する」というくらいに考えて、適切な大きさのリスクを持ち続ける「長期バイ・アンド・ホールド」は、多くの投資家に勧めることが出来る立派な方針だ。

 率直に言って、株価の下落を読んでリスク・ポジションを落として、株価下落後に投資し直してパフォーマンスを改善することは、プロの投資家にも難しい。

 一方、そうは言っても、前記の(1)〜(4)の原則があることと、金融政策と経済・市場との関係に循環性があることを考えると、「少しだけ」ポジションを調整してみるアプローチを取りたい人もいるだろう。率直に言って、筆者自身が自由に自分の資産を運用できる個人投資家であれば、多少のポジション調整を行いそうだ(注:現在は「自由な投資家」ではない)。もっとも、最大で通常ポジションの2割程度までのリスク資産投資額増減を調整率の限界とするだろう。「自分を信用する程度(同時に疑う程度でもある)」をポートフォリオに反映する方法は複雑なので説明には踏み込まないが、大きな調整は出来ないのが普通だと心得ておきたい。

 もう一つの態度は、リスクプレミアムの急拡大、つまりパニック売りが起こるような事象を待つことだ。リーマンショックの後のような状況が起これば、追加投資を行うチャンスだ。

 一方、心配なのは、特に日本における金融政策転換の可能性だ。前述のように、エネルギーなどの輸入物価の上昇は日本経済を窮乏化させる要因なので、インフレ率が一時的に「2%」を超えても、金融引き締めに転ずることは不適切だが、こうした状況を奇貨として金融政策が引き締め方向に見直される可能性がゼロではない。

 また、来年の春には日本銀行の正副総裁3人が任期を迎えて、新しい正副総裁が選ばれる。日銀の政策委員の人事は、金融政策の将来を示唆する一種の「フォワード・ガイダンス」であり、経済と市場に中長期的な影響を及ぼす。日銀の金融政策が引き締めに転ずる場合には、どんよりとした将来が待っていそうで何とも憂鬱だが、金融政策の行方には注意したい。

 現時点で筆者は、日本株は、株価が割高ではない点で相対的に魅力的だと思うが、金融政策の変更リスクを考えると心配な面がある。

 再び、筆者が自由な個人投資家なら、世界株のファンドを自分にとって適正なリスク量だけ保有しつつ、特に米国の金融引き締めの過程で起こるかも知れないパニック売りのチャンスを待つだろう(注:この方針が適切であることについて、筆者は責任を持たない。読者自身の投資は、ご自身の判断で行われたい)。