焦点は、北京五輪閉幕後

 国営メディアで働く幹部は、中国当局のゼロコロナ策は、「中国の特色」そのものだと言います。国の面積や情勢、制度が異なるため単純比較はできませんが、全国民のスマホに健康アプリ、行程コードをダウンロードし、いつ、どこに行ったかが自動的に記録され、それが当局の管理下で移動や生活の自由に直接反映される。省をまたぐ(日本で言えば都道府県をまたぐ)たびに自腹でPCR検査をし、その結果を、飛行機や電車の中、空港や駅を出る際に担当者に対して提示する…私たち日本人は、これらの措置を甘んじて受け入れるでしょうか?

 同幹部が指摘したように、おそらく中国という国土においてこそ成り立つやり方なのだと思います(中国で暮らす外国人の多くも尊重しているようですが)。デジタル化が極端に進んだ昨今の中国において、当局によるゼロコロナ策を、大多数の国民は受け入れ、重んじ、評価すらしているというのが私の分析です。

 中国共産党という、統治のためにさまざまな資源を強権的に発動できる当局者だからこそなせる業であり、そんな当局者に従属的な中国国民だからこそ受け入れられる現状なのでしょう。中国の隣国・北朝鮮がどうなのかは分かりませんが、世界における絶対多数の国家で、上記のようなやり方は成り立たないでしょう。

 ただ、中国ですら、それが成り立ってきた前提は、コロナ感染が全体的に抑制され、経済活動が相当程度回転し、物価が抑えられ、衣食住が安定的に供給され、雇用が確保されてきたからにほかなりません。

 いったんこの前提が瓦解(がかい)する、言い換えれば、コロナの感染が拡大し、経済が回らなくなれば、国民は当局者の言うことを聞かなくなるでしょう。社会不安が広がり、国家権力への反対勢力がちまたで大量に溢れだし、政権転覆が現実味を帯びる、言い換えれば、国家統治者の姓が変わる「易姓革命」が勃発する可能性は中国史が繰り返し証明してきたとおりです。ここに、民主主義国家ではない中国というお国の難しさと奥深さがあるのだと私は考えています。

 焦点となるのは、コロナ抑制と経済成長の有機的共存が至上命題である2022年において、「ゼロコロナ」をどこまで徹底するか、特に北京五輪が閉幕したあたりで、従来よりも柔軟な「ゼロコロナ」と「ウィズコロナ」の中間に「中国の特色」を見いだすような合理的政策が打ち出されるのか、といったところでしょう。

 本稿を執筆するに当たって話を聞いた政府や国有メディアに勤務する知人たちは、「その可能性は十分にある」と私に語っていました。北京五輪閉幕後の情勢と政策に注目です。