突き詰めて考えると、「投資」とは

 何を今さら、と思われる読者が少なくないかもしれないが、「投資とは何か?」という問いへの答えを筆者は時々考えている。

 例えば、「投資とは、経済活動に資本を提供して価値の生産活動に参加して、その一部を受け取ることだ」というような説明を思いつき、この説明は、ゼロサム・ゲーム的な「投機」(FXや商品相場などが該当する)よりも、資本を提供する「投資」が資産形成のためには有利であることを示唆する点で役に立つのだが、投資家がリスクを取って投資を続ける行為の意味を今一つ上手く説明していない。

 最近、筆者の頭の中にあるフレーズは、投資とは、リスク・プレミアムのコレクションだというものだ。このように理解すると、投資家は正しい納得の下に投資を続けられるのではないだろうか。

 投資家の損得の点から見ると、結果がばらつき損をするかもしれないというリスクを取ってでも投資を行う合理的な理由は、「リスク負担の対価を得ることができるから」という理由以外にあり得ない。

 この点を理解すると、投資家は、「長期で投資すると絶対にもうかるはずだ」とか「世界経済は成長するはずだ」などという根拠の薄弱な「信念」に頼らずに投資に参加できるはずだ。

 例えば、20年後に株価が200になると予想される株式の現在の株価は(簡単化のために配当はゼロとしよう)、「20年後に200」が達成されることが確実なら、現在たぶん190以上に形成されるだろう。しかし、「20年後に200」という予想が外れるリスクがあるなら、現在の株価は100くらいで形成されるかもしれない(この場合の割引率はおおよそ年率3.5%だ)。

「絶対に…」という条件が成立すると、株式投資はリスクの無い運用よりももうかるものになり得ない。

 株式市場では、10年に一度くらい大きな株価の下落が起こる。そのたびに、「もう株式投資なんてダメなのかもしれない…」、「資本主義の終わりだ」、「株式投資なんてもうこりごりだ」、などと投資家が思うことによって、株価は有利なリターンを生むように形成される。それを繰り返しているのが株式市場であり、「本当に終わり」が来るかどうかは、将来になってみないと分からない。

 その危うさに耐えられないと思う人は、株式投資をしなくてもいい。真面目に働いて、計画的に貯蓄するなら、生活は破綻しない。大丈夫だ。投資をしなくても、人生はやっていける。

 一方、投資には有利なリターンがあるだろうと思う人は、自分が取ることのできるリスクの範囲で投資をしたらいい。世の中に投資の損失を恐れる人が多いほど、その投資は報われる可能性が大きいはずだ。人々の恐怖心こそが投資を支える栄養なのだ。

 損をする可能性が絶対に無いとは言えないが、損をしても、しょせんお金で済む話ならいいではないか。そう思える人こそが、投資でリターンを得る資格を持っている。