プラザ合意からバブルへ
当時、日本はアメリカに対して貿易黒字となっていました。オイル・ショックの後、米国の金利は高かったので、世界のマネーがアメリカへ集まっていました。これはドルがアメリカ企業の国際競争力より過大に評価される事態を招き、結果としてアメリカの経常収支は赤字になっていました。
そこで1985年9月に「プラザ合意」が成立し、日本は政治的に円高を余儀なくされたのです。
円高になると日本は不景気になるリスクがあったので、当時の日本政府は円高不況の回避に躍起になりました。経済の実勢に対して、緩和的な金利政策のスタンスが維持されたのは、そのような理由によります。これがバブル経済のタネを蒔き、のちに禍根を残したのです。
しかし当時は「円高、金融緩和、原油安」は「トリプルメリット」と株式市場で持て囃され、その背後で日本企業の国際競争力が著しく低下していること、日本国内でモノ作りをすることが割に合わなくなっており、企業はこぞってアジアへ工場移転を進めたことなどは投資家にはあまり注目されませんでした。
つまり、この時期は「日本型モデル」が崩れ去った時代です。