懐かしい名前
今回は、マーケットとトレーディングに興味のある方にとって興味深いと思われる書籍を一冊ご紹介したい。タイトルは『市場リスク 暴落は必然か』、著者はリチャード・ブックステーバー、訳者は遠藤真美、出版社は日経BP社で、今年の5月の新刊だ。帯には「われわれがサブプライム問題の犯人です」とあるが、原著は、昨年、サブプライム問題が本格的に表面化する少し前に出たようだ。
「ブックステーバー」というのは、オールド・クオンツ(「クオンツ」とは数量分析の専門家を指す業界用語)には懐かしい名前だ。1980年代の後半に、ブラック・ショールズ式などのオプション価格理論が流行した時に、オプション価格理論のテキストを書いていた人だ。当時の定番のテキストの中の一冊である。彼は、学界の人でもあるのだが、当時よくあったように、ウォール街に身を転じることになる。モルガン・スタンレーやソロモン・ブラザーズでトレーディングのリサーチとリスク管理、さらに大手ヘッジファンドだったムーア・キャピタルにも在籍し、現在はヘッジファンドのフロント・ポイント・パートナーズでマーケットニュートラル型の株式ヘッジファンドを運用しているという。
ブックステーバー氏は、不動産の証券化商品について、プライシングは研究したであろうが、商品を組成・販売した当事者ではない。「われわれがサブプライム問題の犯人です」というメッセージの意味は、金融技術を使って金融を複雑にして、そこを稼ぎの場にした者が、サブプライム問題のような金融的な混乱の犯人なのだ、ということだろう。
金融市場のバブルや混乱がどのように起こるのかという分析と、過去約20年間の投資銀行やヘッジファンドの舞台裏、さらに、株式市場に興味を持つ身としては、彼らのトレーディングのアイデアなどが興味深い。
金融手段の複雑化が暴落を生む
経済危機につながりかねない金融危機は、実体経済のショックから起こっているのではなく、金融そのものが作り出しているのではないか、というのが、本書の著者の問題意識だ。
たとえば、アメリカではGDPの変化率は明確な縮小傾向にあり、対前年比の変化率で見ると、50年前の約半分で、同じことが個人の可処分所得にもあてまるという。景気後退は今も起こるが、以前よりも浅くなっている。しかし、たとえばS&P500の過去20年間の平均標準偏差は、50年前よりも高くなっている。どうやら、金融自体が株価を含めた金融市場の変動を大きくしているのではないかとブックステーバーは考える。
本書の記述は、基本的に、ブックステーバー氏自身のキャリアの変遷に沿って進んでいる。詳しくは是非本書を読んでみていただきたいが、最初のテーマであるブラックマンデーの際には彼はモルガン・スタンレーでポートフォリオ・インシュランスのプログラムを顧客に提供していたし、後のLTCM危機の前にはLTCMの中核メンバーが在籍していたソロモン・ブラザーズでトレーディングのリスク管理に携わっていた。それぞれの危機を観察するには申し分ない立ち位置だ。
翻訳で400ページを超す大著全体を費やしたブックステーバーの金融危機分析の結論を要約するのは簡単ではないが、新しい金融手段の登場によって、緊密に結合していて、且つ流動性が大きな金融システムの中に複雑性が持ち込まれて、これが日常的にも起こり得るようなきっかけを通じて「事故」(原子力発電所の事故のような事故)につながる、というのがブックステーバーの基本的な金融市場観だ。
彼の分析で興味深いのは、金融システムに規制を追加することが、必ずしも危機回避の対策にならないばかりか、危機及びその連鎖を誘発してしまう恐れがあるとする点だ。たとえば、銀行の自己資本に関連する融資リスクの規制は、この規制が存在することによって、はじめに生じた損失が融資の縮小を生み、これがさらに次の損失につながって行く、といった形で危機をもたらしてしまう。自己トレーディングに関するポジションの規制のようなものも、損失がポジションの整理を生んで、これがさらに次の損失につながるといった連鎖を起こしうる。また、あたかも物理学の不確定性原理の話のように、「観測」自体が観測対象の振る舞いに影響を与えることも指摘されており、たとえば、証券会社にせよヘッジファンドにせよ、トレーダーは自分のポジションや行動が公開され観察されている場合には、そうでない場合と行動が異なる筈だという。「情報開示」も万能ではなく、危機につながり得るということだ。
結局、本書の末尾に述べられている著者の結論は「金融商品を単純化し、レバレッジを減らせば、より堅牢で生存能力の高い市場が創り出されるのである」という素朴なものだ。しかし、著者自身が、金融商品の複雑化を飯の種にしてきた人だし、その動きの推進者の一人でもあったのだから、これは、皮肉な結論だ。
だが、金融商品を複雑化することに対して経済的なインセンティブが働く限り、少なくとも、金融商品の単純化は簡単には起こりそうにない。たとえば、サブプライム問題にあっても、複雑な金融商品を作り、これを販売し、初期にあってはこれに投資することが儲かったから、新たな金融商品の複雑性がシステムに追加されることになったのだ。
ある意味では、金融危機の原因として最も根源的な「金融商品」は、個々の金融マンが保有する成功報酬あるいは成果主義型の報酬システムという、「(一時の)稼ぎを原資産としたコールオプション」だろう。金融マンは、自分でコールオプションを持っていて、且つ、たとえばレバレッジを使って、自分のオプションの原資産のボラティリティーを自分で拡大することができる。そして、このボラティリティーの拡大作業を見えにくくするために、新しい金融商品やヘッジの仕組みなどを作って、システムに複雑性を持ち込もうとする強力なインセンティブが働く。
投資銀行やヘッジファンドなど、成功報酬が当然と思われている世界に長く身を置いたせいか、こうした仕組みのもたらす影響が、あまりに当たり前すぎて、著者の目には入らなかったのだろうか。報酬の仕組みが個々の人間に与えるインセンティブと、これがもたらす影響に関する分析にまで目が届いていない感じがするのが、本書の分析で唯一物足りない部分だった。
トレーディング手法の有効性の半減期は3~4年
投資銀行やヘッジファンドで長らくリスクを管理する立場にあった著者が見てきた、トレーディングに関わるエピソードの数々は、本書の読み所の一つだ。
トレーダーや投資銀行の経営者達の、ここで紹介するのが憚られるような、赤裸々な描写が何カ所も実名入りで出てくるし、実在の金融機関の経営に対して批判的な記述も出てくる。金融界にご興味のある方(たとえば、外資系の金融機関に就職・転職しようと思っている方)は、是非、直接この本を読んでみて欲しい。特に、登場する金融機関の「社内政治」のありようが、参考になるはずだ。それにしても、投資銀行のトレーディング部門は、感心するくらい、実に頻繁に損をするものだ。
さて、株式投資に興味を持つ向きには、本書の株式トレーディングに関する具体的な記述も読み所になるだろう。
たとえば、同様な動きをする銘柄の組み合わせを多数見つけて、値上がりしたものを空売りして、値上がりが遅れているものを買う「ペア・トレード」が、モルガン・スタンレーで生まれた経緯と、その後の、進化形の話が出てくる。
ペア・トレードは、モルガン・スタンレーのトレーディング関係のシステムの担当者が試みに始めて、この担当者は当初成功を収めるが、社内でプログラムを横取りされて、モルガン・スタンレーからこの担当者は消えてゆくことになる。
ペア・トレードに関する記述で面白いと思ったのは、その後の進化形に関する説明だった。動きの早さで銘柄群を「先行群」と「遅行群」に分けた場合、業種など共通で一定の属性を持つ先行群銘柄が複数上昇(下降でもいいのだが)する場合に、この属性を持つグループに対する何らかの情報に基づいた取引(「情報トレード」)が行われているらしいと判断し、遅行群が先行群を追うと考えて、遅行群の銘柄を買い持ちし、先行群でこれをヘッジ(空売り)するというような情報トレードの判断方法が説明されていた。複数の銘柄が同時に同方向に動いた場合には、確かに、何らかのファンダメンタルな情報が背後にある確率が大きいと言えるだろう。
このアイデアに基づく取引は、数年間にわたってモルガン・スタンレーにかなり大きな利益をもたらしたようだが、ある時から利益が消え始める。
著者によると、新しい複雑性(多くは新種の証券)に基づく取引手法の有効性は、その半減期が3~4年といった程度のものであるらしい。
一つのトレーディング・ノウハウがいつまでも有効であることはない、という教訓でもあるし、ヘッジファンドの選択にあたって、過去2,3年のトラック・レコードを基準とする巷の方法がいかに不適切か(ほとんど「間抜け」と言っていいくらいのものだろう)がよく分かる。
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