「向こう」を見ないSDGsの功罪

 日本国内に「自治会」などの地域コミュニティーは30万あるといわれていますが(総務省の資料より)、今年度、筆者は自宅が属する自治会の班長になったため、先日初めて総会に参加しました。配布された資料に目を通している最中、ある箇所でしばらく考え込みました。「自治会活動とSDGs」です。

 誰もが住みやすい、住み続けたいと思える都市を目指し、住民相互の連絡・連携、環境の美化、親睦交流活動、生活安全、福祉活動を充実させることが、当該自治会におけるSDGs、だと書かれていました。

「持続」することに偏っている感が否めない、自治会に加盟していない(会費を納入していない)地域住民にこのメッセージが届いておらず「置き去り」を黙認している、自治会の及ぶ範囲が関わっている人や地域だけ(それ以外は対象外)など、SDGsとは言い難い内容ではないか、と感じました。

 もし当該自治会が述べるSDGsが、自治会に加盟していない人や、自治会以外の人・地域のことを考慮せず、自分たちだけが「持続」できればよい、と考えているのであれば、非常に身勝手なSDGsです(そもそもそれはSDGsとは言えない)。

 世の中にはこうした「自分たちだけ型」のSDGsのほか、「部分だけ型」のSDGsもあります。「当社はSDGsのこの目標とこの目標を守れるように頑張っています」、のようなケースです。「できることをやる」は、裏を返せば「できないことはやらない」になってしまう危険をはらんでいます。

「自分たちだけ型」「部分だけ型」の共通点は、全体を網羅できていないことです。鳥の目で物事を見る「俯瞰(ふかん)」が足りていないのです。非西側を置き去りにしてきた西側のSDGsと同じです。「自分以外を含めた全体」を認識することで初めて、「誰も置き去りにしない(No one will be left behind)」を実現できるのです。

「置き去りにされた失望や怒りに似た感情」が膨れ上がるとどうなるでしょうか。こうした感情がいったん膨れ上がると、話し合いで解決することは困難です。仲裁できる人がいない場合、問題は長期化してしまいます(現在の西側と非西側のように)。

 SDGs順守をうたうのであれば、「俯瞰」は必須です。「置き去り」を発生させて別の問題を噴出させることがないためにも、この考え方は欠かせません。