<1-1>夫婦間でお金の話はタブー?

 理香はそろそろ1歳になる美咲を寝かしつけるために、はや30分以上を費やしていた。いつもならもうそろそろ寝付く頃なのに、今日に限って時間がかかる。そうしているうちに自分にも眠気が押し寄せてきて、理香は必死であくびをかみ殺した。

 このまま寝落ちしてはいけない。今夜こそは夫の信一郎に、ゆっくりと話したいことがあるのだ。

 5冊目の絵本の途中でようやく美咲は眠りにつき、理香はそうっとベッドから逃げ出した。信一郎はソファにドンと座り、のんきにゴルフ番組を見ている。理香はふぅ、とため息をつき、静かに切り出した。

「ねえ、今日は少し真面目に、将来のことやお金の話をしたいんだけど」

[少し真面目に]というワードと、いつになく真剣な声のトーンに、信一郎は慌ててリモコンでテレビを消して振り返った。

 信一郎は44歳、理香は40歳。結婚12年目の夫婦である。長男の健は今春小学校4年生になり、妹の美咲は10カ月。生後半年から最寄りの保育園に通っている。

 学生時代の先輩後輩である信一郎と理香は、恋人として付き合っていない期間も含めると、付き合いは約20年を超える。ロジカルで慎重派の信一郎、ポジティブで楽観的な理香。性格的には凸凹だが、お互いの短所も長所もよく理解し、信頼関係がある夫婦だ。

 しかし、理香は最近、密かな不満をためていた。食費や家賃などの「家運営」に関することは信一郎の財布から、子供に関することは理香の財布から、という別会計夫婦である点だ。

 通っている地域の公立小学校では、半分ほどが私立中学に進むため、健はこの間から「塾に行きたい」と言い始めた。これまで一緒にゲームをしていた周りの友達が塾に行ってしまったのが主な原因と想像はつくが、それでも本人がやる気になったからには応援したい。ただ、現在の「別会計」体制では、今後どんどん理香の出費割合が増えていくことに、信一郎はまったく無関心…というか、そもそも、気がついていないのだ。

 結婚時にきちんと話し合いをせず、なんとなく今の体制が出来上がってしまったのがよくなかった、と理香は最近、よく思う。教育費はともかく、住宅購入費や老後資金、両親の介護など、さまざまなシーンでその都度「これはどちらが出すのか」を議論するのが目に見えており、議論が苦手な理香にとっては気鬱の種なのだ。

「改まってどうしたの。何かあった?」

 疲れた表情の理香にコーヒーを入れながら、信一郎は理香の顔色をなんとなくうかがっている。理香の声音から、そこそこ真剣な話であることは読めているようだ。過去の経験上、そして理香の性格上、ここで下手に茶化すとへそを曲げてしまうことが想像に難くない。

「今日、マイケルとZOOMで面談があったの」

「マイケルって、よく話に出てくるアメリカ人の気さくな上司? 何か嫌なこと言われた?」

「嫌なことじゃないんだけど…。『君は離婚する予定なの?』って聞かれたの」

「ええ、離婚?!」

 ぶっそうなキーワードに信一郎はとびあがった。

「何からそんな話になったんだ? そりゃアメリカじゃ離婚なんて日常茶飯事だろうけど…」

「実はね…」

 理香は今日の面談を改めて振り返りながら、ぽつぽつと話し始めた。

 マイケルとの面談で、自分のキャリアの話から給料の話へ、そして家計の話に触れた際、子供の教育費は自分が分担していること、夫の収入やその使い道の詳細を知らないこと、などの不安をこぼしてしまった。

 マイケルはかなり驚き、ちょっと悩んだ末に、その質問を理香に投げかけのだ。「君たちは離婚直前なのかい?」と。「もしお子さんを引き取って離婚する予定なら、理香の給与がアップするように、マネジメントポジションを目標にしてキャリアを見直そうよ」

「ええ? 離婚なんてとんでもない! なんでそんな話になるんですか?」

「だって、離婚直前の夫婦って、お互いの収支を隠して財産分与合戦に備えるケースが多いじゃないか。そうじゃないのに、夫婦でお金の話をしたことがないって、びっくりだよ」

 とマイケルは首を傾げた。

「僕ら夫婦は26歳と23歳で結婚したんだけど、式に誰を呼ぶかの相談よりも先に、お互いの収入と資産形成の話をしたよ。二人ともすごく貧乏だったから、板チョコ数枚くらいの額しか投資に回せなかったけれど、あれ以来ずっと投資は続けているし、月々の投資額も、総資産も、順調に増えている。日本人は世界でもトップクラスの長寿国なのに、そんな無計画で将来どうするのさ」

 マイケルは、サーフィンがしたいからという理由で会社まで1時間半かかる郊外の海辺に住んでいる自由人だ。部下を誘っての会食でも気前よく奢ってくれることも多く、こまごましたことは気にしない大雑把な楽観主義者だと思っていた理香は、その周到さに驚いた。26歳と23歳なんて、32歳と28歳で結婚した理香と信一郎にとっては、結婚について真剣に話し合ったこともなかった年代だ。

「マイケルの話を聞いて、夫婦でお金の話をまともにしたことがないのって、やっぱりよくないんじゃないかなって思って。旅行や外食なんかの突発的な出費は、なんとなく半分ずつくらい負担して、家計に含めないでいるけれど、それも出費の一つに含めたほうがいいと思うの。それに、お互いの収入と貯金についてちゃんと話して、教育費や私たちの老後の計画を立てたほうがいいんじゃないかな」

「でも、健も美咲もまだ小さいし、教育費がかかるのは大学に入る頃だよ。ましてや、僕たちの老後なんてまだまだ先だし、計画を立てるのはもう少し先でもいいんじゃないかな」

 信一郎がそう言いかけたとたん、理香はドン、とコーヒーカップをテーブルに置いた。

「出た! シンちゃんはいつも、『まだ早い』、『もう少し先』っていうんだよね。『もう少し先』っていつ? 来年? 再来年? 健が私立中学に合格しちゃってからじゃ遅くない? だいたい、結婚するときだってシンちゃんはなんでも私任せで…」

「分かった分かった。ちょっと待った!」

 昔の話を蒸し返されそうになり、信一郎は慌ててコーヒーのお代わりを理香のマグカップに注いだ。これが始まると無限ループになるのは経験上痛いほどわかっているのだ。

 パソコンを開き、理香がエビデンスを見せながら説明を開始する。健が行きたがっている塾の月謝がどれほどか、私立に合格した場合の入学費や学費合計がいくらになるかを聞いて絶句した信一郎は、「む……」としぶしぶうなずいた。

「マイケルは好意的に評価をしてくれているけれど、産休や育休、時短勤務で、年収がステイしてしまっているのは確かなの。今後、健が私立中学に合格した場合の学費を、私の財布だけから出すのはちょっと辛いかも…」

「分かった。明日、健が遊びに出てから、美咲をうちの母さんに預けて、二人できちんと話そう」

「本当ね? 絶対よ? 忘れて朝からゴルフなんて行かないでよ?」

「大丈夫、行かない。絶対だ」

 お義母さんにはあなたから電話してよね、とブツブツいいながら、それでも理香はようやく納得し、コーヒーカップを洗い始めた。

厚生労働省「令和4年賃金構造基本統計調査」をもとにトウシル編集チーム作成

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