金融業界の隠語
古くからある金融業界の隠語に「バイサイド」、「セルサイド」という単語がある。
バイサイドとは、直接的には「買う側」のことだが、運用会社ないしは運用会社で働く人のことを指す。代表的な職業はファンドマネージャーだ。
セルサイドは、概ね証券会社ないし証券マンのことでバイサイドの人々に金融商品を売って手数料を稼ぐ人を指す。意味を拡大解釈すると、外国為替の取引では銀行は注文を受けて手数料を稼ぐ側なのでセルサイドと言っていいだろう。
バイサイドとセルサイドとでは、働く上での価値観や行動様式が大いに異なる。金融業界での就職や転職を考える際には、自分がバイサイド向きなのかセルサイド向きなのかはよく考えるべき問題だ。もちろん、本人の好き嫌いが大きく関わる。
あくまでも傾向としてだが、仕事に対する好き嫌いという意味では、バイサイドの仕事が好かれることが多い。
株式や債券などの注文という行為に焦点を絞ると、バイサイドは「注文を出す」ことが仕事で、セルサイドは「注文を貰うこと」が仕事だ。前者はお客様の立場であり、後者は売り手であり業者の立場になる。後者は前者に対してお願いをする立場だし、前者は複数の業者の中から注文先を選ぶ強い立場にある。取引の際に「ありがとうございます」と礼を言うのはセルサイド、近年は随分減ったが会食やゴルフなどのいわゆる接待では、セルサイドが「接待する側」でバイサイドが「接待される側」なのが普通だ。バイサイドの仕事の方が精神的に気分がいいことは想像に難くない。
その代わり、たとえば外資系の会社に勤める場合、セルサイドの方が概して報酬が高い。但し、セルサイドの仕事の方が上手く行かない場合にクビになるまでの期間が短い傾向がある。
一方、セルサイドでは外に向かって仕事をするので、個人が目立ちやすい。アナリスト、エコノミストなどの専門職では、運用会社内の同僚が基本的なサービス相手となるバイサイドのアナリスト、エコノミストよりも、セルサイドで仕事をする方が世間的に名前が売れるし、有名になると報酬が高い。こうした職種では、バイサイドで仕事を覚えた上で、セルサイドに転職して名を上げることを目指す人もいる。
ただ、転職市場の多数派の意見としてはバイサイドの職種の人気が高いのではないだろうか。将来ファンドマネージャーになりたいと言う証券セールスマンには多数会ったことがあるが、将来はセルサイドの仕事がしたいというファンドマネージャーには殆ど会ったことがない。
また、バイサイドの世界には、セルサイドの仕事を「手数料を稼ぐ運用パフォーマンスの敵」、「注文を貰うために頭を下げる卑屈な仕事」などといった理由で、価値が一段低い仕事だと見る気風が少々ある。
ファンドマネージャーの仕事は、どのようなところがいいのだろうか。筆者がある外資系の運用会社に勤めていた時、ロンドンのオフィスに出張した際にイギリス人のファンドマネージャーに「ファンドマネージャーの仕事は好きなのか」と聞いてみた。
「もちろん好きだ。ファンドマネージャーだと、調査を理由にいろいろな場所に旅行に行けるからね。それに、インタビューを申し込むと、立派な企業の偉い人が時間を取って会ってくれるし、実に丁寧に遇してくれる。他の仕事だと会えない相手に会える。いい仕事だと思うし、気に入っている」と答えた。好奇心の満足とプライドとが両立できるのであれば、確かに「いい仕事」だ。
「運用パフォーマンスの数字は気にならないか」と追加で聞いてみた。
「多少はプレッシャーに感じるけど、気にしても仕方がないよ。われわれの仕事ではいろいろなことがあるさ。でも、悪くてもクビになることはないし、損しても他人のお金だからね」。
なかなか物の分かった人物だった。
投資家、ビジネスパーソンとしての両者の長所・短所
筆者は、バイサイド、セルサイド何れでも働いたことがあるし、いずれにあっても国内系と外資系両方の会社を経験した。個人的にはバイサイドの仕事の方が性に合っていた。但し、前出のイギリス人ファンドマネージャー氏のように旅行や経営者インタビューが好きだったわけではない。
何と言っても、自分のファンドに関して自分で意思決定が出来る点が爽やかで良かった。セルサイドは、顧客に対する働きかけは積極的であっても、実際に注文の意思決定を行うのはバイサイドの顧客の側なのでそうはいかない。
また、時代の影響だが、1980年代、1990年代の資産運用は、「モダンポートフォリオ理論」、「金融工学」、「行動ファイナンス」と総称されるような新しい理論が登場して実際の仕事に応用された時期で、資産運用の世界では、仕事の技術がすっかり更新された。若手社員の知識やスキルが、明らかにベテラン社員や上司を上回ることが可能であった点にも張り合いがあった。上司や先輩に威張られることがない、というのはいい仕事環境だった。むしろ、上司や先輩の不勉強を叱ることができた。
技術の更新に関しては、今のAIやデータ解析などの技術が絡む仕事では、世代的に「下剋上」が可能だろうから、若手にとっては張り合いがある状況なのではないかと想像する。「技術」は、職業選択上の注目点の一つだ。
さて、バイサイドとセルサイドでは、仕事のテンポ、進め方、組織の雰囲気、仕事の価値観などがちがう。「バイサイド向きの人」と「セルサイド向きの人」はキャラクターが大いに異なる。
バイサイド人の典型的な人物像は、議論好きで、自説に対して頑固で、対人関係は不器用な人、だろうか。上司に取り入ることが上手い人物が出世するのは、バイサイドの会社にあっても同じなのだが、こうした世渡り上手なサラリーマンはファンドマネージャーには向いていない場合が多かったように思う。
対して、セルサイド人の典型的な人物像は、せっかちで、儲け話に敏感で、外交的な性格で、調子がいい人物ということになるだろうか。要はセールスマンなのだが、金融・運用の世界では情報が実質的な商材になる場合が多いので、情報に貪欲で、且つ情報通を気取った大きな態度を取りがちだ。
価値観の置き場所として、セルサイドは「情報」に価値を置き「機会」の利用に敏感だ。一方、バイサイドは「判断」に価値を置き「考え方」の一貫性にこだわる傾向がある。尚、損得と金銭勘定に敏感な点は金融マンなので共通だ。
率直に言って、ビジネスパーソン一般として成功しやすいのは、優秀なセルサイド人の方だろう。情報感度、フットワーク、人間関係構築、プレゼンテーションなどビジネス本で解説されるようなテクニックを自然に身につけている場合が多いし、速いテンポのビジネスと厳しい競争で鍛えられている。他方、優秀なバイサイド人は、周囲の常識の裏をかくことが好きだったり、他人に合わせることに興味が無かったりするので、出世では不利な場合が多い。
一方、ビジネスパーソンとしては成功しにくくても、投資家には、もちろん優秀なバイサイド人が向いていることは間違いない。
では、友達にするなら、どちらがいいか。これは、人それぞれの好みの問題だろうが、筆者はバイサイド・タイプの人物に興味を覚えることが多い。
具体例を一人だけあげておこう。当社、楽天証券は分類上はもちろんセルサイドなのだが、チーフ・ストラテジストの窪田真之はファンドマネージャーの経験が長く、キャラクターはいい意味で「バイサイド人」そのものである。読者は、機会があれば彼と話してみるといいし、トウシルの動画などからも「バイサイドの人」の雰囲気を掴むことが出来るだろう。