バイサイドのセルサイド化とその原因

 さて、バイサイドの人間が、超然としてファンドの運用だけに集中していられる時代は終わりに向かいつつある。金融業界では、大きなトレンドとして、「バイサイドのセルサイド化」が進んでいる。

 わが国では、1990年代後半の国債優良株のミニブームの時期に、数人の投信ファンドマネージャーが「カリスマ・ファンドマネージャー」などと呼ばれて、顧客の前に出るようになった。また、銀行の窓口でも投資信託を販売するようになって、投資信託の販売チャネルが拡大して、運用会社の人間がファンドの販売促進活動に駆り出されるようになった。

 それまで、個人を目立たせることを好まなかった日本の運用業界(というよりも金融業界)の内向きな組織マネジメントの影響で、日本の運用会社はスター・ファンドマネージャーを作って来なかった。

「運用のスター」を作るには「たまたま上手く行った長期の運用期間」が有効なのだが、ファンドの運用担当者を頻繁に変え、また「チーム運用」などという魅力のない運用方針を掲げていたのは、経営的にはもったいない時間の浪費だった。

 また、かつては実質的に証券会社の一部門に過ぎなかった投信運用会社が、徐々に経営的な独立性を高め、また親証券以外にも販売チャネルを持つに至って、運用会社の経営者が徐々に運用会社経営の真の姿に目覚め始めた。加えて、証券系だけではなく、証券以外の金融系や、完全な独立系など運用会社の種類と数が増えて、普通の業種のような競争状態が発生した。

 この状況では、運用会社にとっては、証券会社や銀行のような運用商品の販売会社が実質的な顧客となる。ここに至って、運用会社がセルサイドとなり、証券会社や銀行がバイサイドになる立場の逆転現象が一部では発生した。運用会社が販売会社の顔色を窺い機嫌を取り、販売資料を作成したり、一般顧客向けのセミナーに講師を派遣するような状況となった。

 運用会社にとって経営上死活的に重要なノウハウは、実は、運用技術よりも、広義のマーケティング能力である。時には無意識的にだが、運用会社の経営者たちは、(1)運用会社の収益に直結するのはファンドの販売でありマーケティング戦略であること、(2)運用力そのものを意図的に改善することは難しいこと、の二点に気がついた。

(2)は「それを言ってはお終い」的な不都合な真実だ。運用会社の社長は会社の内外両方に向かって、「我が社の運用の優越性」と「今後の経営方針としての運用力の強化」を言い続けていなければならない。一方、運用力の強化が本当に可能で、運用パフォーマンスの優越性によって社業を伸ばしていくことが、可能なのだと思っているようでは、経営者として甘すぎる。

 経営上の操作変数としては、運用のリスクの質と大きさ(たとえば、運用スタイル選択とそれをどこまで極端に適用するか)を選択することで競争上のポジションを変えることはできるが、運用力で一方的に有利な差を作り出すことは不可能だ。

 運用会社経営の王道は、相変わらず「平凡な運用、非凡なマーケティング」にあると申し上げておこう。

 また、運用会社の最終的な顧客である個人との関係を考えるとしても、一般個人の間でも「運用会社に市場平均に勝てる特別なノウハウがあるわけではないだろう」ということを自然に理解する投資家の数が少しずつ増え始めている。スマートな彼らが多数派になるまでには、おそらく数年から十数年単位の時間が掛かりそうだが、運用会社が運用力に対する顧客の期待や尊敬を背景に超然としていられる状況はどんどんレアになりつつある。

 運用会社の実質は、今や製品の供給プロセスを垂直統合した金融マーケティング会社だ。ファンドマネージャーを含めて、社員は「良きセルサイド人」であることがビジネス上求められている。「情報に敏感であれ」、「販売と宣伝の機会を逃すな」、「プレゼンテーション能力を磨け」、「愛想良くあれ」。

 運用商品の業界全体に亘るラインナップを考えた場合に、特異な運用力(たまたま上手く行っているものも含めて)を売り物にして、たとえばヘッジファンドのような厚かましいフィーを取るようなビジネス・会社・人は幾分は残るだろうが、かつてのファンドマネージャーのように、「プライドの高い顧客であることが仕事」であるようなバイサイド人の黄金時代は復活しそうにない。

個人投資家は究極のバイサイドになり得るか?

 運用会社は実質的にセルサイドの会社になりつつある。近い将来、純粋にバイサイドだと言える存在は個人投資家だけになるかも知れない。

 究極のバイサイドである個人投資家は、自分自身をどのように考えたらいいのだろうか。もちろん、運用会社以外に、証券会社、銀行、保険会社、といったセルサイドが存在するし、加えて、FP(ファイナンシャル・プランナー)、(自称)プライベート・バンカー、など周囲には資産運用周りのセルサイドの人間がたくさんいる。

 注意すべきなのは何か。かつてのバイサイドの教訓を一つお伝えしよう。かつて筆者が同僚に向けていた言葉でもある。

「セルサイドの餌付けに気をつけろ!」と申し上げたい。

 餌付けとは、動物を手なづけたり調教したりする際に餌を利用することだが、金融の世界での「餌」は二種類ある。一つは対人的に「構ってやるサービス」であり、もう一つは「情報」だ。

 セールスマンと会って話をする人間関係を切ることができずに、金融商品の取引を続ける人が、法人・個人を問わず少なくないが、「対人サービスの対価として、金融商品の手数料を支払う」のは高く付くので止めた方がいい。

 もう一つの問題は「情報」のセルサイド依存だ。投資に関する情報をセルサイドに依存するとセルサイドとの関係を切ることが難しくなる。

 また、そもそも提供される情報は、控え目に見てもセルサイドにとって重要なタイミングと内容のものであって、バイサイドの投資家にとって真に必要なものだとは限らないことに注意が必要だ。

 たとえば、目先の株価変動には大いに関係するとしても、憶測を含む金融政策の予測や、経済指標の速報解説などは、10年、20年の単位で行う資産運用にとっては、興味深くはあっても大半がノイズ(雑音)に近い。

 セルサイドの提供する情報を相手のタイミングに合わせて渇望している投資家は「餌付け」された状態に近い。

 反面教師的な例を一つ挙げよう。大昔のバブル時代の話だが、信託銀行や生命保険会社のような機関投資家が本格的に資産運用を始めた頃、彼らは、ファンドマネージャー及びその候補者たちを大手証券会社にトレーニーに出した。トレーニー達の多くは、証券会社のアナリストやエコノミストの仕事ぶりに感化され、株式や先物のトレーディング部署の活気に圧倒された。自社に戻って、セルサイドのような分析と取引をするのが「マーケットのプロ」のあり方なのだと勘違いした。まるで、ある種の鳥が生まれて最初に見たものを自分の親だと勘違いするような具合だった。証券会社にとっては、餌付けされた動物のような都合のいい客のできあがりだった。

 彼らの多くは、後になって、本来のバイサイドの仕事は、セルサイドの仕事と大きく異なることに気づくのだが、大きな回り道だった。また、このことに気づかずに「いいお客さん」であり続けて、後輩の指導にもこれを繰り返すような悲惨な再生産も生じた。セルサイド側から見ると、極めて上手くやったと言える。

 著名投資家ウォーレン・バフェット氏の盟友であるチャーリー・マンガー氏は、彼ら二人がもっぱら本を読むことから情報を吸収していると語っている。ニュース・メディアからでもなく、ネットからでもないし、まして証券会社のセールスマンからでもない。

 バイサイドの人間は、独自のテンポと情報ソースから情報を得て「判断」を行うといいのだ。筆者自身の自己否定につながるので少々残念だが、セルサイドの提供する情報は本来の投資家にとっては不要なはずだ。セルサイドから意図的に距離を取ることの必要性は、機関投資家であっても、個人投資家であっても同じである。筆者は、真のバイサイドを体現する自立した個人投資家が増えることを願っている(こうした言い方を好むのは、バイサイドの人間である)。