※本記事は2014年2月7日に公開したものです。

「投資哲学」という言葉について

 近年、筆者はインデックス運用に言及することが多くなっており、「インデックス投資派」だと思われることがあるが、ファンドマネジャー時代の運用方針はすべてアクティブ運用であり、現在もアクティブ運用が好きだ。

 個人投資家にインデックス運用を勧めるのは、(1)アクティブ運用の運用商品手数料が不当に高いと思うこと、(2)現実にアクティブ運用商品の平均パフォーマンスがインデックス運用に負けていること、(3)相対的に優秀なアクティブ運用を事前に見分けることができないこと、の現実的な3つの理由による。プロであれ、アマチュアであれ、運用者として自分でやってみて面白いのは、アクティブ運用だと思うし、アクティブな要素を取り入れたインデックス運用にも興味がある。

「哲学」という本来の意味を考えると、言葉を「投資」にくっつけることには心理的に少々抵抗があるが(「投資思想」くらいの方が言葉として正確だと思う)、年金運用の世界をはじめとして、「投資哲学」という言葉が広く使われているので、本稿ではこれを使う。「いかに投資で勝つのかに関するゲームプランを構想する上で大本にある考え方」というほどの意味だ。運用者によっては、最後の「考え方」を、「信念」という言葉で置き換える方がいいような頑固者もいれば、これがその時々の「作業仮説」程度のよく言えば柔軟な、悪く言えば「軽い」運用者もいる。

 正直にいうと、筆者は、何事に対しても「信念を持つ」という態度は知的堕落だと思い、やや軽蔑しているので、「作業仮説」派だ。その時々で、運用というゲームを戦う上で、何がポイントなのかを考えるのが楽しい。

 他方、年金運用などの運用ビジネスの現場では、運用の一貫性・安定性がポジティブに評価されやすいので、「信念」をアピールする方が好まれるし、マーケティング上有効だ。従って、作業仮説程度にしか思っていない運用哲学でも、顧客や顧客に付いたコンサルタントに対しては、あたかも不変の信念であるかのようにプレゼンテーションするような使い分けもある。この辺りは、人それぞれだ。