海外から違和感を持って見られている東京五輪開催前の“内紛”

 東京五輪開会式(2021年7月23日)予定日まで、5カ月を切りました。

 私は現在、一時的に日本に滞在していますが、海外を活動拠点にしてきた日本国民の一人として、いま目の前で起こっている各種事態を、複雑な心境で見つめています。

 新型コロナウイルスの発生やまん延が原因となり、東京五輪が1年延期になってしまった経緯には、非常に残念な思いをしました。出場内定選手の皆さんは心身含めたコンディショニングに苦労されてきたでしょうし、主催者側やボランティア、スポンサー関係者もさまざまな忍耐や調整を強いられたことでしょう。

 それでも、新型コロナウイルスという「人類共通の敵」に打ち勝った証しとして、東京五輪を何としても成功させるという思いは、多くの国民に共有され、国際社会からも支持されてきたように思えます。東京五輪が決まった瞬間、日本中で湧き上がった歓喜を昨日のことのように思い出します。国民のほとんどは、祖国で1964年以来2回目の夏季五輪を開催することを喜び、支持したでしょう。

 しかし、現状は厳しいように映ります。新型コロナはいまだ終息せず、政府が観光や経済を促進するために実施した「Go To キャンペーン」の後、再び新型コロナの感染者や重症者があからさまに増え、医療がひっ迫する中、「こんな状況で五輪なんか開催できない。するべきではない。五輪と国民の生命とどちらが大事なのだ!?」という民意は広範に存在してきたように感じられます。観客はおろか、選手ですら海外から入国させることに拒否反応を示す国民も少なくないようです。また、無観客の開催しかあり得ないという見方もあれば、無観客の五輪など開催する意味がない、平和の祭典からは程遠いという主張も少なくないようです。

 このような状況下で、各世論調査にも表れているように、開催に反対、すなわち、五輪中止を主張・支持する国民が非常に多いように見受けられます。そして、このような世論の実態を如実に反映しているのが、昨今、永田町や霞が関、東京五輪・パラ五輪競技大会組織委員会の会長人事をめぐる騒動であるように思えるのです。

 日本が国民国家として、アジアで初めて近代化を実現した世界第3位の経済大国として、新型コロナウイルスに打ち勝った証しとしての決意と結束力を世界に対して示していくべきこの時期に、菅義偉総理大臣の長男が所属する会社による総務省幹部不当接待問題、森喜朗元首相による女性蔑視(べっし)発言などで、国会や世論は翻弄(ほんろう)されてきました。

 これらの事態が問題ではないと言っているのではありません。追及すべきところは追及し、取るべき責任は取ってもらうべきです。ただ、なぜ今なのか、今でなければならないのかという違和感が拭えないと感じるのは私だけでしょうか。

 新型コロナの抑制と経済の再生という、国民の生命と財産に根源的に関わるテーマに全力で取り組み、その上で、できる範囲内で最大限の形式、規模感を持って東京五輪を開催、成功させる。菅政権にとって、今年の上半期、これ以上に重要な課題はないでしょう。

 現状として、森喜朗氏は辞任に追い込まれ、後任となった橋本聖子元五輪相も過去のスキャンダルが持ち出され、その人間性にまで疑問が投げかけられ、菅政権、総理本人は、長男の不当接待問題における野党やマスコミからの追及対応に追われています。そして、誤解を恐れずに言えば、多くの有権者は、政権指導部や五輪組織委員会が一連の不祥事に翻弄、忙殺されている事態を前に、内心ほほ笑んでいるかのようにすら私には映るのです。

 国民の間で広範にまん延する、新型コロナ抑制と経済再生に適切に対応できてこなかった菅政権に対する不信感、緊急事態宣言、自粛期間中に蓄積した鬱憤(うっぷん)、そして国民の生命、財産、健康的な心理状態を保障できないような状況下で、五輪は開催できないし、すべきでもないという有権者の心情が、「政治の暴走」と「東京五輪組織委員会の迷走」を結果的に“容認”しているというのが目下、不都合な現状といえるのではないでしょうか。

 さもなければ、昨今の日本社会を覆っている、足の引っ張り合いに象徴される内紛状況はとても説明できません。日本は民主主義国家で言論の自由があるから、も含めて、説得力に著しく欠けます。

 前置きが長くなりました。100%、私の個人的な見方、考えですが、この期間、欧米、中国、香港、台湾の政府、企業、メディア、知識人らと東京五輪の開催いかんをめぐって議論をしてきた中で、ほとんどが上記と類似する見方をしていて、昨今の日本は国際社会からこのように見えているのだろうなと判断したため、あえて書き留めた次第です。