龍馬との邂逅
「船中八策」は学生時代から知っていましたが、「あっ!」と思ったのは為替ディーリング業務に従事し、1985年のプラザ合意を経験してからです。
1985年、G5(先進5カ国)によるドル引き下げのプラザ合意直後から、ドル/円は急激な円高となり、240円から、3年で120円になり、その結果、円高不況が日本を襲います。国際政治によって為替が動き、これによって日本経済が一時的に痛手を被りました。為替レートの大変動によって国が翻ろうされる姿を、身をもって体験したのです。
そのため、坂本龍馬が国家運営の根幹となる「為替政策」を既に120年前に挙げていたのは、驚くばかりでした。また、それまで気付かなかった自分にも驚くばかりでした。
船中八策は、龍馬によって書かれたとされていますが原本は見つかっておらず、近年では創作との説もあります。しかし、第八策は、貿易商社である亀山社中(後の「海援隊」)を立ち上げるなど経済視点をもって行動していた坂本龍馬らしい着眼点と言えます。
幕末に日本と外国との金銀交換比率が異なったため、日本から大量の金が流出した事態を目の当たりにしていた龍馬が、外国との交換比率を正当な評価で定めることは、これから開国する日本にとって、経済基盤の最重要課題と位置付けていたことに、違和感はありません。
ペン・ネーム「ハッサク」は、船中八策の「八策」ではなく、船中八策の中の第八策の「八策」です。為替業務に携わる身として、先人の強い思いを常に肝に銘じたいと思い「ハッサク」としました。