日本にも賃上げの機運が広がり、日本銀行による大規模金融緩和政策の修正が視野に入ってきました。マイナス金利の解除など金利の引き上げはいつになるのか。昨春の早い時点から米国の大幅利上げや日銀のYCC(イールドカーブ・コントロール、長短金利操作)政策の柔軟化を指摘してきた早川英男元日銀理事(東京財団政策研究所主席研究員)に話を聞きました。

 インタビューは11月28日に行いましたが、日銀の植田和男総裁の12月7日の「チャレンジング」発言を受けて、日銀の政策修正が前倒しされるのではないかと市場観測が高まったことに関して、早川氏から9日に「市場が過剰反応になっている」とのコメントをいただきました。この記事の末尾で紹介しています。

 

マイナス金利解除は来年4月か

──市場では日銀が来春にマイナス金利を解除するとの見方もあります。どのような見通しを持っていますか?

 植田総裁はマイナス金利の解除に慎重です。タイミングを間違えたくないという考えがあるし、今の日銀がしていることは意図的な「ビハインド・ザ・カーブ」(物価上昇に対し、金融引き締めを遅らせること)です。

 金融政策は普通、物価がどうなりそうか予想に基づいて進めますが、今の日銀は賃金と物価が安定的に上がる証拠が出るまで動かないやり方をとっています。

 来年の春闘で賃金は上がると思いますが、現時点で賃金がどれくらい上がるか証拠がありません。刑事ドラマでいったら、犯人はほとんど分かっている、だけど物証がなくて逮捕ができない状態です。賃金が上がる証拠がほしければ、マイナス金利解除は来年4月ではないかと思います。

──労働組合の中央組織・連合は来年の春闘で賃上げ率を「5%以上」と、今年の「5%程度」よりやや高めの目標を掲げています。

 そうです。さらに金属労協(全日本金属産業労働組合協議会。自動車総連、電機連合など五つの産業別労働組合で構成、会員数は200万人超)も高めの要求をすると報じられました(金属労協は12月6日に基本給を一律に引き上げるベースアップを月額1万円以上とする要求方針を決めました)。

 そう考えると、来年の春闘は今年並みか、今年を上回る可能性は高いです。ただ可能性が高いというだけなので、日銀は証拠を待つという話だと思います。

 市場ではマイナス金利解除を来年1月と言う人もいますが、3カ月急いでもいいことはありません。来年1月時点では賃金上昇を示す証拠はそんなに出てきません。植田さんが言うように、多少遅れても大きな問題は起こりません。

 拙速に動いてせっかく出てきた賃金と物価が安定的に上がる芽をつぶしてしまったら元も子もないので、意図的にビハインド・ザ・カーブを採用しているということです。

 日銀が確たる証拠をもって持続的・安定的な物価上昇と言いたいのであれば、来年4月まで待つのがオーソドックスだと思います。

来夏から0.25%ずつ利上げも

──日銀はマイナス金利の解除後はどう動きますか?

 マイナス金利を来年4月に解除した後は、意外にすいすい利上げをしていくと思います。意図的なビハインド・ザ・カーブなので、物価が上がる証拠が出たら、「すぐ逮捕、すぐ起訴だ」というやり方です。マーケットでは、日銀はマイナス金利を解除してもその後しばらく動かないという予想もありますが、全然ロジカルではありません。

 米国の中央銀行に当たるFRB(連邦準備制度理事会)はすすっと利上げをしたからこそ(2022年3月~2023年7月の累計で5.25%利上げ)、物価抑制がある程度うまくいきました。米国は途中までインフレに対し後手に回っていましたが、一気に利上げしたことで遅れを昨年半ばあたりで取り戻しました。

 日銀は米国のように1度に0.75%も金利を上げるわけではなく、マイナス金利解除後は半年や一年間くらいかけて、3カ月に0.25%刻みで上げていくと思います。来年、賃金が上がるデータが明確に出てきたら、早めに動くのが一番合理的です。

──2023年7~9月のGDP(国内総生産)速報値は実質で年率換算2.1%減で、3四半期ぶりのマイナスでした(※改定値で2.9%減に下方修正)。食品の値上げで個人消費の弱さが見られたことなどが要因ですが、もし日銀が来年利上げをすれば景気が腰折れする心配はございませんか?

 一番のポイントは、物価変動を加味した実質賃金が昨年4月から前年と比べたマイナスが続いているわけですが、これは物価の上昇率が落ちてこないからです。日銀も民間予想も半年くらい前までは今年後半はインフレ率が1%台くらいに落ち着くとみていました。その予想通りだったら今ごろ実質賃金はプラスのはずです。

 だけど、実際は物価が高止まりして、実質賃金はマイナスです。ただ名目賃金が上がっていないわけではありません。今年の春闘では定期昇給だけではなく、基本給を一律に引き上げるベースアップの上昇率が2%くらいありました。毎月勤労統計の共通事業所ベースの所定内給与では2%前後上がり、中小企業にも賃上げは広がっています。

 ということは、来年はあまり心配しなくていいとも言えます。CPI(消費者物価指数)の上昇率は峠を越えつつあり、賃金は上がっていきます。そう考えると、実質賃金がプラスになるのは遠くはありません。逆に言うと、賃金と物価の好循環と言いますが、物価高騰が賃金上昇よりも先行してくると景気は苦しくなります。

 また政府の補助金について、2020年の新型コロナウイルス感染拡大を受けた一律10万円の定額給付金は貯金になって無駄だったという人が多いですが、違うかもしれません。

 物価上昇率は2008年に前年同月比で2%台まで行きました。あの時賃金は全然上がっていなかったから、個人消費は相当苦しかったんです。日銀は2006年7月にゼロ金利を解除し利上げに踏み切りましたが、だからこそ、利上げをストップしました。物価は上がっているけど、実質賃金はマイナスで景気が悪くなってしまったので心配だという理由でした。総裁が福井俊彦さんから白川方明さんに代わるタイミングでした。

 今回、比較的うまく回っているのは、実質賃金が大幅なマイナスにもかかわらず、コロナ明け後の経済正常化でサービス需要が伸びているためです。家計には貯金もあります。実質賃金がマイナスの割りに個人消費が崩れないのは、定額給付金で家計にたまった分が無駄ではなかったからではないでしょうか。

 日本だけでなく世界中で、物価が先に上がって賃金は後から追っかける動きとなっています。個人消費がそんなに崩れなかったのは、経済正常化に伴うサービス需要回復と給付金などによる強制貯蓄のおかけだと思います。

 強制貯蓄をどんどん使う米国人と、そうでもない日本人で多少の違いがありますが、もし強制貯蓄がなかったら今はもっと苦しかったでしょう。特に低所得層は。政府が進める経済対策で、所得税減税は来年の春闘後で完全に遅すぎますが、低所得世帯に7万円の給付をするのはいいタイミングではないでしょうか。