ある投資教育の専門家と話をしていたら、投資教育の前提条件として、お金、金利、会社といった、投資の前提になるものについて、きちんと説明することが重要なのではないかとの指摘を受けた。

 確かに、お金について大事なものであって汚いものではないことを納得して貰うことが重要だ。長く続いたゼロ金利時代の影響で金利というものに対して必要な感覚を得ていない世代が登場している。会社をどう理解するかは単に投資だけでなく、働き方にも通じる重要なテーマだ。

 何れについても、正しいイメージを持つことが後の理解を助ける。以下、お金、金利、会社の順に定義と説明を試み、幾つかの論点を検討する。

(1)お金の本質とは何か

【定義】

 お金とは「人を動かす力」を数量化したシンボルだ。

【説明】

 お金を支払うと、物を譲って貰えたり、サービスを受けたり、他人に思い通りのことをして貰うことができる。こちらが、権力や信用を持っていなくとも、多くの希望を叶えることが出来る。この便利さと安心のために人はお金自体に強い愛着を持つ。

 お金を渡すことには感謝の表現と同時に相手に恩を売る精神的な攻撃性があり、また、何でもお金を媒介として比較することができる弊害をも持っていることに注意が必要だ。

【論点】

 お金の本質についてかつては「自由の範囲を拡大するツール」だとの説明が気に入っていた。欲しい物を手に入れるにも、行きたいところに行くにも、助けたい人を助けるにも、お金があると出来ることの範囲が大きくなる。

 お金を単に交換の媒体や価値保存の手段として説明するよりも、個人の人生の意思決定に近い。

 ただ、これだけでは物足りないと思うようになった。年収で自分を格付けされた時に心が乱れるような心理や、安心のためにはお金を持っていたいと思ってお金に執着するような行動を説明できるような定義が欲しいと思うようになった。

 お金は、価値の尺度になりやすく、いろいろなものの交換価値がお金で表現される。例えばお金のことを「感謝の印として渡すもの」あるいは「他人への貢献の評価として受け取れるもの」だと説明した時に、では、年収500万円の人よりも年収1,000万円の人の方が、価値がある働きをしていると言えるのかどうかが問題になる。稼ぎと、その人の価値には直接の関係が無いこと、お金と幸せの間にも直接の関係が無いことを、早い段階で上手く説明することが出来るといいのだが、なかなか上手く行かないのが現実だ。

 お金は決して汚いものではないが、安易に美化した説明はしない方がいい。お金の持つ心理的な攻撃性や過剰な愛着・拘りを生みやすい危険性が説明できるような定義が欲しい。

 お金を、数量化された人を動かす「力」であると説明しておくと、お金を持っていることが力であるということの心理的な影響や、お金を持っていることが安心だとするお金への愛着が理解しやすい。

 お金は、多くの場合、消費嫌サービスに対して、即時に、しかも支払者が誰であるかに関係なく使える。特段の個人的信用を持っていない人でも、欲しい物を手に入れられるし、良いサービスを受けることが出来る。お金を持つことは端的に言って安心だ。

 この安心感の故に、お金を獲得するために、多くの労働者が自分の労働力を安く売っており、その集積が企業の利潤となって経済を回している。

 また、お金を持っていることの安心感は、特に不況の時に、消費の拡大よりも倹約を志向する心理につながり、お金の保有が増える分だけ経済全体の需要が足りなくなるようなことが起こる。

 個人としては、お金をあくまでも手段として合理的に扱うといいのだが、多くの人が持つお金への愛着にはなかなか厄介な面があると言っておきたい。

(2)金利とは何か

【定義】

 金利とは、お金の空間における時間の値段だ。

【説明】

 金利は、お金をある期間利用する純粋な時間の値段と、相手の信用とを同時に値付けするものであり、取引の相手によって異なる。通常お金は、早く手に入れて、遅く支払うことに価値がある。債券は、金利を介するお金のやりとりを取引しやすいように形にしたものだ。

【論点】

 金利は「ある期間について、お金を使わせて貰える(使う権利を譲渡する)値段」として経済空間に存在する言わば経済空間における重力のようなものだ。

 これまで普通とされていた経済環境の下では、お金は、早く受け取って、遅く支払うことによってメリットが生じるのが普通だった。商品の販売代金はなるべく早く回収して、仕入れ先への支払いはなるべく遅らせたい。

 わが国では長らくゼロ金利ないしゼロに近い金利状態が続いたせいで、「お金の世界では、時間に値段がある」という感覚を実感として持たないビジネスパーソンが増えていることは、少し問題かも知れない。

 ゼロ金利、或いはマイナス金利の下では、ある期間お金を「利用する」と考えるのではなく、「無事に預かっておかねばならない」ということに対してニーズが発生したので、これは異常と決めつけられないまでも、異例の状況だった。

 さて、仮に今後、意味のある大きさのプラスの金利が当たり前になった時に、個人は金利とどう付き合うべきだろうか。やはり、「経済空間の重力」のように金利を扱うことになるのだろう。

 投資家が金利と付き合うのは、主に債券を通じてだが、債券は金利を介したお金のやり取りの契約自体を売買しやすくしたものだと理解しておいていいだろう。

 ことに長期債が、一定期間の資金の運用利回りを固定する。その期間にちょうど一致する負債を他方に持っている人にとっては、長期債が「実質リスクゼロ」になるし、そうでない人にとっては期間のズレが金利変動による損益を生むリスクになる。したがって、保険会社や年金基金のような資金にとっての長期債と、個人に取っての長期債とでは、運用上の実質的なリスクに差が生じる点の認識が重要だ。個人投資家が、機関投資家の運用の真似をすることは、しばしば不適切だ。

 債券などの形で取引される金利の中には、信用の値段も入っているので、この部分への投資はリスク・プレミアムの獲得につながると考えられなくはない。しかし、現実の債券取引の取引単位の大きさや情報の非対称性を考えると、個人が信用リスクのある社債などの取引を行うことは勧めにくい。

 以上のような事情を考えると、個人投資家は主として株式だけで運用を考えていいのではないだろうか。

(3)会社とは何か

【定義】

 会社とは、他人を利用し合うための経済的仕組みである。

【説明】

 経営者、資本家、各種の労働者、は相互に他人を利用するために集まり、その集合体が会社である。会社には目的があり、その目的は必ずしも最大利益の獲得ではない。利益は、会社の目的というよりは、存続の前提条件だ。

 一方、資本はリスクを取って利益の獲得を目指す形で会社と関わる。株式は、この資本に参加するための手段である。

【論点】

 近年、会社とは人の集まりだと理解するとスッキリするように思うようになった。

 人が集まって、お互いを利用し合うのだ。経営者は社員を利用して会社を経営しようとするし、社員も会社がなければ仕事がない点で経営者を利用している。もちろん、営業、人事、総務、システムなど各種の部門の社員同士もお互いを利用し合っていることはいうまでもない。

 そして、こうした人の集まりを運営・維持するには、経済的な関係が必要であり、そこで我々がイメージするような会社が解になる。

 会社にとって、利潤の最大化は必ずしも目的ではない。経営的には、何らかの別の目的が確立されている方が人間の組織としては上手く行くように見える。

 少々理想主義に過ぎるかも知れないが、会社という組織にとって利益の獲得は存続の条件であり、目的をより良く達成するための手段である、と整理したい。

 但し、この場合に、資本の持ち主は、投資に際して会社の利益を評価し、利益の拡大を求めることが経済合理的だ。この際に、資本として会社の生産活動に参加するための手段が株式ということになり、利益の影響を強く受ける株主に最終的な意思決定の権限の多くを与えたシステムが株式会社だということになる。

 資本家は「資本」にとっての合理性を追求していい。一方、会社の「人間」は利潤を獲得することが、自分たちの目的をより良く達成する条件になる。

 最大利潤の獲得を目的とする会社組織があっても理屈上いいかも知れないが、「人間」のまとめ方としては上手く行きにくい。一方、投資家=資本家に、資本の利潤獲得の効率性以外の「意味」を目的として持たせようとすることは、彼らの競争力を損なうので、上手く行きにくいようだ。後者は、例えば、ESG投資がなぜ上手く機能しないのかの原因を説明するように思われる。