「期待」の意味

 資産運用の専門用語の中で「期待リターン」は、特に甘美な響きを持つ言葉だ。短期国債や預金のようなほぼ無リスクとされる資産よりも高い期待リターンが得られると思えばこそ、投資家は株式投資のリスクを受け入れる。

 こうした文脈で使われるので、期待リターンの「期待」には、どうしても「期待に胸を膨らませる」という表現に出てくるような意味での希望のニュアンスが付随しがちだ。しかし、専門用語としての期待リターンの「期待」は、統計学で言う「期待値」、即ち、将来の実現確率で重み付けされた加重平均としての「予想」の意味で使われている。

 この使い分けは投資教育の初期に明確に伝えておくといいと思うのだが、教える側も、両方のニュアンスを適当に混ぜ合わせる方が話がしやすいので、案外放置されることが多いようだ。

 因みに、経済や経済学を語る文脈でも、「物価期待」、「期待に働きかける」のような形で「期待≒予想」の意味での「期待」が断りなく使われている。「予想」という言葉を使う方が多くの国民により正確なニュアンスが伝わると思うのだが、中央銀行や学者は「期待」という言葉を使う方がしっくり来るらしい。

 さて、資産運用での「期待リターン」は、典型的には、「国内株式=年率5.5%」、「外国株式=年率6.2%」といった形で提供される。これらは、一体どこから来るのだろうか。たぶん最重要に大事な数字なのだが、その求め方が説明される機会が少ない。

過去は役に立たない

 期待リターンには様々な求め方がある。より正確に言うと、期待リターンを様々な方法で求める「人」がいる。

 さすがに最近見かけなくなったが、資産クラスごとの過去のリターンの平均値から期待リターンを求めようとする人がいる。「恣意的な予想を含めずに、過去のリターンから機械的に計算する方が客観的だ」と言い張る人もいた。

 ところが、彼(彼女)は、ほどなく、過去の10年を取るのか、20年を取るのか、30年を取るのかといった過去の計算期間の選択で結果が大きく異なることに悩むこととなる。

「期待リターン」はあくまでも将来の予想に基づく期待値でなくてはならない。「過去のデータの平均値」は期待リターンとして機能しないのは、運用実務界の半ば常識である。一方、実務的に、リスクの値は、リターンの標準偏差も相関係数も過去の値を用いることが多い。

 この非対称性をどう理解するのかは難しい問題だが、先ずは、過去のデータにあってリスクの数値が期間の変化に対してリターンの数値よりも安定していることと、次に、期待リターンの数値は、仮にその数値に本当のリターンの予測上意味があるなら直ちに市場価格に影響すると考えられる一方リスクの数値は期待リターンの数値ほどには直接的に利益に繋がりにくいことを考えると「なんとなく」納得できる気がする。過去のデータに少なくとも直接的に「儲かる予測」は無いのだ。

 期待リターンに対する、予想として直接的で、一般向けの説明として有り難みのある方法に、経済予測モデルから株式のリターンを求める方法がある。ごく単純には、GDPの付加価値の内訳の一部を株式のリターンと結びつけるような仮定を置いてみたり、あるいは分野別の企業の収益を変数に含む大きな計量経済モデルから株式に対する収益を計算してみたりするような、「マクロ経済アプローチ」とでも呼ぶべき期待リターンの求め方がある。

 公的年金の世界では、政府が中期財政見通しの前提として発表する中期経済予測を踏まえて運用計画を立てよという論理的な建て付けになっているので、幾つもの仮定を置いて経済見通しと国内株式の期待リターンを結びつけて考えることが慣例になっているが、こうして求められた数値が、短期・中期・長期何れにあっても「予想値」として意味があると思っている関係者は、筆者の知る限りごく僅かである。

 マクロ経済の予測から株式の期待リターンを予想するアプローチは、(1)どのマクロ変数と株式リターンが結びついているか判然としないこと、(2)そもそも将来のマクロ経済予測自体が難しいこと、(3)株式市場参加者が経済予測をどのくらい株価に織り込んでいるかが判然としないし多分不安定であること、などから、有望だとは言いがたいのが現実だ。

鉛筆を舐める?

 機関投資家の運用実務の世界では、20年以上前から「ビルディング・ブロック方式」という言葉を時々聞くようになった。

 例えば「国内債券」というアセットクラスの期待リターンを「無リスク(≒短期国債)金利のリターン」+「期間のリスクのリスクプレミアム」(長期債には金利変動で価格リスクがあるのでそのリスクに対するプレミアム)+「信用リスクのリスクプレミアム」(社債などのデフォルトリスクに対するプレミアム)を合計して求めるようなやり方だ。

 株式の場合は、「無リスク資産のリターン」+「ビジネスリスクに対するプレミアム」となったり、長期投資を前提にして、長期債のリターンに株式のリスクプレミアムを乗せたりする。

 では、ここで想定するそれぞれのリスクに対する「リスクプレミアム」はどのように決まっているかというと、厳密な計算によるものではなくて、「経験」と「横並び」を意識して「何となく決めた」数字であることが多いのが現実だ。

 既に時効をかなり過ぎていると思うので昔話をしてみると、今のGPIFがまだ年金福祉事業団(通称「年福」)と呼ばれていた頃に、某会社の運用部門にいた筆者は、運用のミーティングで年福に行ったことがある。その際、年福の偉い方が、「我々はビルディング・ブロック方式で期待リターンを考えている」という主旨のことを重々しく仰ったので、筆者は「ビルディング・ブロック方式なんて大げさな名前が付いているだけで、実態はただ鉛筆を舐めてそれらしい数字を作っているだけではないのですか?」と言ってその人物を少しからかった。

「まあ、そうだね」というくらいの余裕のある受け答えを期待したのだが、反応はそうでもなかったので、その場が少し気まずい雰囲気になった。会社に戻ってから、大いに叱られたことは言うまでもない。

 昨今、主観的な思いを込めて数字を考える作業に「鉛筆を舐める」という比喩が適当かどうかに若干の表現上の疑問はあるが、「ビルディング・ブロック方式」は鉛筆舐めの作業に若干の手順と形式に加えて立派な名前を与えたものだ。

 期待リターンの求め方に決定的な方法が無く、しかし、現実には期待リターンを用いてアセットアロケーションを決めなければならない以上、「ビルディング・ブロック方式」、あるいは別の(立派そうな)名前の下で、「柔軟にそれらしい期待リターンを提示する」方法は今後も継続するにちがいない。

「外国債券」をどうするか?

 ところで、期待リターンが一番注目されるのは株式関係のアセットクラス(「国内株式」、「外国株式」、など)かも知れないが、特に機関投資家の場合に大きな影響があるかも知れないアセットクラスに「外国債券」がある。

「外国債券」の期待リターンをどう考えるかはなかなかの難物だ。

 比較的多いのは、国内債券よりも少し高い期待リターンが与えられていて、外国債券がそこそこの比率で組み入れられているケースだ。

 筆者は、資産運用分野で高名だったある大学の教授に「外国債券の期待リターンはどうして、国内債券の期待リターンよりも高いのですか?」と訊いたことがある。大先生は「それは、外国債券には為替リスクがあるから、ハイリスク・ハイリターンの原則上、外国債券のリターンが高くなるのは当然でしょう」と仰った。だが、続けて筆者が「外国の投資家から見ると、日本の債券には我々が外債に対して見込むのと同じくらいの大きさの為替リスクがあるはずですが、両方がハイリターンというのはおかしくないですか?」と質問を続けたら、しばし黙り込んで、やがて別の話題を見つけて怒りだしてしまった。

 基本的にゼロサムゲームの世界である為替市場で(より正確には「為替・金利市場で」)発生する為替リスクには、株式のような資本資産の価格に取り込まれるようなリスクプレミアムが存在しない。

 現在の、内外共に異例の金融政策が進行中の場合をどう考えるかというむずかしい問題があるが、一般論として、国内債券と外国債券との期待リターンの関係をどう考えるべきなのか。為替市場と、金利市場、債券市場はグローバルに繋がっているし、そもそも外国為替取引は為替レートと金利とをセットで考えて行うものなので、外国債券に為替リスクのリスクプレミアムを想定していいのだろうか。

 また、「債券」も、運用資金のライアビリティー・サイドが短期や無期限の投資家と、ある程度確定した(例えば年金ALM分析でデュレーションを求められる)負債を持った投資家とでは、「無リスク」と考えられる資産が異なる。前者では短期資産(短期国債など)かも知れないが、後者にとっては例えば「10年国債」が実質的に無リスク資産となる。

 内外共に、「債券」というアセットクラスをどう扱うべきかについては、今後、運用業界の動向が変化する可能性が大いにあるように思われる。

 筆者の当面の個人的な意見を述べておこう。

 外国債券が為替リスクの故に期待リターンが高いと考えることには違和感がある。長期的には外国債券は、同じ程度のクレジットリスクで較べると国内債券と期待リターンに大きな差は無いはずだ。だとすると、「外国債券」はアセットアロケーションの計算上「そこそこの(標準偏差で株式の半分近い)リスクがあるのに期待リターンが高いとは言えない『割の悪いアセットクラス』だ」と言えるのではないだろうか。

 従って、個人投資家向けには、「外国債券はいらない」とアドバイスしてきたし、継続的にアドバイスしているある企業年金には、「外国債券に振り向けられるリスク量があれば、内外の株式に割り当てましょう」と言って「外債をゼロにして少し株式(主に外国株式)を増やす」運用を勧めている。過去10年くらいの結果は良好である。運用としての考え方は、これでいいのではないか。

 近い将来、海外中央銀行の金融引き締めが終わった時に、債券利回りが低下して「外国債券」が羨ましく見える時が来るかも知れないが、その時には、為替レートが円高に振れる可能性がある。「外国債券」は「苦労の多いアセットクラス」なのではないだろうか。

期待リターンは社会的に決まる

 もともとの問題に戻ろう。期待リターンは、どう決まるのか?

 率直に言って、期待リターンは、主に機関投資家どうしでだが、投資家どうしの「横並びを気にする駆け引き」を通じて、いわば社会的に決まっている。

 言うまでもなく、運用者どうしには競争がある。年金基金のような一歩引いた立場の運用者も、業界内で「負ける」のはまずい。

 そして、競争には緩やかに「平均投資有利の原則」が働いている。これの影響で、アセットアロケーションの配分が似てくると、ほぼ同じリスクデータを使っているので、必然的に期待リターンも平均的な値に収斂させる力が働く。

 期待リターンは、一種の社会的プロセスによって決まっているのだ。目下、実務界も、実務界の考えを追認しがちな学者の世界でも、「株式のリスクプレミアムは年率5%〜6%くらい」という辺りが多数説のようだ。

 繰り返すが、運用に競争があることを考えると、機関投資家は、アセットアロケーションも従って期待リターンも、他の投資家の平均を意識せざるを得ない。

「期待リターンは、なんとなく、社会的に決まっている」と言われると、有り難みがないと感じる読者が多いかも知れないが、これが現実である。

 案外、巡り巡って「期待リターン」は、社会的に形成される「希望リターン」の集計値を少々持っているものなのかも知れない。もちろん、希望だからと言って勝手に高く設定できないことが現実でもある。