子供将棋教室が教えてくれたこと

 将棋連盟の教室は、人数の多い教室での講義形式で、問題を解かせたり、大盤でプロ棋士の先生が局面の考え方を説明したり、子供どうしで対局させたり、といった概ね想像のつく内容だったが、子供は十分楽しんでいた。「今日は、○勝×敗だった」という結果の出るゲームは張り合いがある。

 一方、T六段の教室が良かった。連盟の教室よりも人数が少なく、子供の棋力レベルもまちまちだ。個々の子供に合わせた指導をしてくれた。

 子供は、子供同士でも指す機会があるし、子供は先生とも指す。先生は、生徒の棋力の段階や目的にもよるのだろうが、息子には、生徒を強く鍛えるよりも、将棋の考え方を伝えることに重点を置いて指導してくれた。

 教室通いは、小学校4年、5年と続いたが、5年生のある段階で中学受験の勉強が忙しくなったので、終えることにした。

 振り返ってみて、T六段の教室では、子供にとって良い効果が3つあった。
(1)大きな声で臆せず挨拶する習慣がついた、
(2)「負けました」と自分で言うことの精神的プラス、
(3)局後の検討の習慣がついた、
の3つだ。何れも子供の将来にとって、見かけ以上に大きなメリットだったと思う。

(1)挨拶

 先ず、誰にでも大きな声で臆せずストレートに挨拶できる人は大人でも案外少ない。挨拶は相手に対する関心を示す行為なので、上手くできることの効果は大きい。誰を相手にしても、先手を取って、臆せずに挨拶することを身に着けたい。

「挨拶と礼」は伝統的な技芸以外にスポーツ系を含む将棋以外の習い事でも重視されることが多いだろう。だから、子供が習うのは将棋でなくてもいいのだが、将棋の場合、一対一で会話のできる距離で相手に向かって語りかける点が良い。集団で大きな声を出す挨拶よりも、実社会で重要な挨拶に近い。

 筆者は子供達(娘もいる)には、「挨拶ができるかできないかで、生涯所得はまちがいなく2割はちがうはずだ」と教えている。たぶん、「2割」は大幅な過小評価だろう。挨拶ができる人と、できない人の経済価値の差は莫大だ。挨拶を投資の話に直接結びつけるのは、筆者といえども難しいが、「子供が将来得する話」として覚えておいて欲しい。

(2)「負けました」

 そして、次の「負けました」が重要だ。将棋はルール上は王様を詰められたら負けなのだが、その手前で負けたと思う側が負けを認める投了という形で終わることが多い。また、詰められた場合でも、「負けました」と言うことが概ね礼儀になっている。

 やってみると分かるが、将棋は負けるとものすごく悔しいゲームだ。例えば、よほど人間ができたどうしでなければ、将棋はビジネス上の接待には向かない。アマでも有段者なら相手の手抜きは分かるし、終わりに近づくほど緊張が高まるゲームの性質上、真剣になりすぎるからだ。

 このゲームで、自分の負けを自分で認めて、他人に宣言するところまで行うことの精神的な効果は大変大きい。

 世の中には、自分の負けや失敗を認められずに、現実を直視しなかったり、歪曲しようとしたり、負けを取り返そうとして不適切な意思決定をしたりで、さらに大失敗を犯すケースが溢れている。人間はしばしば間違えるのだから、負けを認めて整理できることは大きな強みなのだ。

 子供も大人も、自分の負けを認める練習をするといいのだが、なかなかいい機会がない。小学校でも、子供どうしの優劣比較を不自然なまでに避けることがある。

 読者も声に出して、「負けました」と言ってみるといい。少しばかばかしい感じがするだろう。しっくりこなくて妙な気分になるかも知れないが、これで気分をリセットできる強力なツールを手に入れたことになる。

 投資家が、自分の負けを認められなかったり、負けを必要以上に恐れたりすることで合理的な行動から遠ざかることは、「プロスペクト理論」をはじめとする行動経済学の諸研究にある通りだ。

「あと少しで買い値に戻るから、もう少し我慢する」
「値下がりしていても、売らない限り負けではない」
「ナンピン買いで平均買い値を下げよう」
「株価は下がっても、株主優待があるからいい」
「インカムゲインだけで安定した収益を得たい」
「まとめて買うと高値づかみをするかも知れないので、時間分散して買おう」
「損を取り返していないので、まだ止められない!」

 以上は、何れも、損にフラットに向き合えないために、僅かではあっても合理性からズレている投資家が口にしそうな台詞だ。

 資産形成のために行う意味での正しい投資では、「勝ち負け」を意識して行動を取る必要がないことが殆どだ。しかし、投資を続ける過程では、大きな含み損が生じることもあるし、積立投資でも個々のタイミングに後悔することもあるだろう。

 含み損でも、損は損だ。現状では負けているということなのだから、これを素直に認識すべきだ。そして、現在までの過去に生じた損は「サンクコスト」(埋没費用:後からは取り返せない費用のこと)だと認めて、現状で今後のためにできることに集中することが大事だ。

 子供は、大人になる前に「負けました」と言えるようになるといい。

(3)局後の検討

 T六段の教室で、息子にとってもう一つ良かったのは、局後の検討の習慣がついたことだ。

 勝ち負けが決まったらやりっ放しにするのではなく、両対局者が対局を振り返って、多くの場合は局面を戻して駒を動かしながら会話する局後の検討は、プロ同士の対局でも行われる良い習慣だ。

 勝敗の分かれ目となる局面でどうすれば良かったかを探ることで、思考の幅を拡げることができるし、相手があるゲームなので、相手の読み筋は参考になる。もちろん、正解を見つけておくことは大事なのだが、局後の検討の最大の効用は「自分がなぜ間違えたか」を振り返るきっかけになることだろう。

 メリットとして卑近だが、問題を解く、採点される(あるいは、自己採点する)、自分がどこをなぜ間違えたかをチェックする、という一連のプロセスは、受験勉強にも大いに役に立ったはずだ。

 投資家の場合は、間違えた理由を振り返らないままに、次にまた試すことによって分かろうとして、結局正しい原則を理解しないケースがあまりに多いように感じる。

 本当は一番怖いかも知れない「たまたま上手く行ったケース」の危険まで振り返ることができるといいのだが、そこまでできなくとも、自分の投資は本当はどうあるべきだったのかと振り返る習慣があるといい。

 将棋は勝って嬉しいし、投資は儲けてうれしい。何れにも、勝ち負けや損益の刺激が強すぎる面がある。長い投資経験を持つ投資家が、我流からいつまでも進歩しない状態を抱えていることが少なくないのは、自分の投資行動とその原因を振り返る習慣がないことが原因の一つだろう。

 もちろん、検討は、今後の行動を改善するために行う。過去の経緯にこだわって、それが今後の意思決定に影響するようでは本意ではない。そのためにも、「負けました」で一区切り付けて、あらためて局後の検討を行う将棋のスタイルはいい。

息子の将棋のその後

 息子は、小学校5年で将棋教室を止めた後に、特に将棋を熱心に指したわけではないが、中学校に入ってからも勉強の気晴らしにネット将棋を指したり、学友にも将棋を指す友達がいた。

 大いに強くなった訳ではないが、大学ではかつて父がいた将棋部に顔を出してみるつもりらしい。将棋は彼の一生の趣味の一つになったと思う。いいものが一つ身に着いた。広義の人的資本への投資の一つとして成功だったと思う。

 付け加えると、時間のコストを別とすると、教室や将棋の本などにかかった直接的な費用は、将棋の場合申し訳ないくらいに安かった。

 先日、息子と対局する機会があった。いい勝負だったと言っておこう。息子との将棋対局の特にいいところは、勝って嬉しくて(俺の方が強いぞ)、負けても嬉しい(息子はよく育っているな)、ということだ。こんなに具合のいい対局相手は子供以外になかなかいない。

 将棋でなくてもいいのだが、親子でできる趣味はいい。