昨年、資本市場を理解するのに役立って且つ面白い読み物としてリチャード・ブックステーバーの「市場リスク 暴落は必然か」(遠藤真美訳、日経BP社)をご紹介したが、久しぶりのブックガイドとして、ジョージ・A・アカロフ、ロバート・J・シラーの「アニマルスピリット」(山形浩生訳、東洋経済新報社)をご紹介しよう。訳書のサブタイトルは「人間の心理がマクロ経済を動かす」だ。

著者のアカロフは情報の非対称性を扱った通称“レモンの経済学”などの実績でノーベル経済学賞を受賞した人で、シラーは資本市場とマクロ経済の両方に詳しく、根拠なき熱狂」(植草一秀監訳、沢崎冬日訳、ダイヤモンド社)ではネットバブルの構造を見事に指摘した。また、サブプライム問題の発生以降、投資家が毎月注目するケース・シラー住宅価格指数の作者の一人でもある。共に文句なしに一流の学者であり著述家だ。

この本での「アニマルスピリット」

「アニマルスピリット」はケインズが使って有名になった言葉だが、著者達は、これを踏まえつつも、もっと広い意味でこの言葉を使っている。経済学を囓ったことのある人にとっては、この点が却って分かりにくいかも知れないので、筆者の解釈を付記しておく。

ケインズのアニマルスピリットは、企業家が事業を興したり投資を行ったりするときの「非合理的なまでに熱いビジネス的情熱」といったものだ。一般に、起業の多くは失敗するし、事業における投資のリスクはポートフォリオのリスクのように数字で計測できるようなものではない「不確実性」(フランク・ナイトが「リスク」と区別して使う「不確実性」)の下にある。この状況を考えてケインズは、事業というものが、多くの点で、合理的な計算では説明できない「アニマルスピリット」とでも呼ぶしかない感情に突き動かされて動いていると述べた。また、「利子・雇用及び貨幣の一般理論」のケインズは、消費者の心理や投資家の心理など、心理的な要因を深く考えた経済学者だった。

一方、アカロフとシラーは、その後のケインズ解釈者たちによって無視されがちだった、経済現象の説明における心理的な要因を重視すると共に、これまでの経済学が想定する合理的経済人の行動原理からすると非合理的な心理的・感情的要因全般を、ケインズを意識して「アニマルスピリット」と呼ぶことにしたようだ。そして、この本では、これをマクロ的な経済現象を説明するためのツールとして前面に置いて強調した。

この本のアニマルスピリットは、行動経済学や行動ファイナンスでよく言う「バイアス」ほど細かく定式化されているわけではない説明概念だが、大まかには脳の進化的に古い部分(ある意味では「動物脳」)が司るとされる「感情」が、計算的合理性である「勘定」から逸脱する現象を重視しているという意味で、行動経済学・ファイナンスの文献をお読みになったことがある方は「必ずしも理性や計算に服さない動物脳的な感情の影響をアニマルスピリットと呼んでいるのか」と思いながらこの本を読むと、意味が頭に入りやすいのではないと思う(注;厳密には、この本が、とり上げたアニマルスピリットの全てが脳の進化的に古い部分の機能だけで実現しているのではないが、イメージとしては分かりやすいのではないか)。

5つのアニマルスピリット

アカロフとシラーが取り上げた、通常の経済理論では軽視されるけれども無視できない「アニマルスピリット」は5つある。「安心」、「公平」、「腐敗と背信」、「貨幣錯覚」、「物語」だ。

まず、人は投資を行うかどうかということを考える場合、リスクとリターンのバランスを考えるというようなアプローチよりも、「それは安心か?」という印象に大きく左右される。また、「安心でない」ということになると、取引も信用(お金の貸し借り)も縮小するので、安心が損なわれた場合には、「安心乗数」がマイナス方向に働くことによって、経済活動の広範な縮小が起こると著者らはいう。

次に、人は自分が「公平」に扱われているかどうかということに対して、非常に強く反応するし、第三者の行動に対しても「それは公平でない」と思った場合には憤りを感じ、これが経済行動に影響する。なお、脳の研究によると、他人の公平からの逸脱に対して罰を与えることは、脳内に快感(幸福の感情)をもたらすらしい。基礎としては、当然そういうことだろう。

著者達によると、賃金の決定を考え、その先の失業を考える上で、「公平」という心理的な要素が重要な役割を果たすという。失業が起きる大きな原因の一つは賃金が高止まりすることだが、なぜこれが起こるのか、特に、なぜ企業家が必要よりも高い賃金を払うのかを説明した部分(第8章)は面白い。

「腐敗と背信」と著者達が呼ぶのは、違法でないとしても相手を騙すような意図を持った行動のことだ。法律に触れない程度の会計上のドレッシングから、エンロンが行ったような違法で極端な利益操作までレベルに差があるが、前者が徐々に後者に移行して、これが破綻すると、厳しい批判に晒されるというようなことが、現実世界では繰り返し起こっている。世の中のトレンドとして、「腐敗と背信」的な行動のレベルが高まるときと、これに対する非難が高まるときがあり、いずれも経済活動に大きく影響する。

「貨幣錯覚」とは、インフレ・デフレを正しく織り込まずに名目の金額で損得を判断する現象のことだ。近年の合理性を重んずる種類の経済学にあっては、その存在が嫌われて、理論上は半ば存在しないことになっていたと著者達はいうが、貨幣錯覚は広範に存在し、たとえばデフレであっても労働者は名目賃金の引き下げに抵抗する。

また、人は「物語」をもとに物事を考えるという、小説家が聞いたら喜びそうなことも言っている。例えば、ネットバブルは、インターネットに関するいささか行き過ぎた経済価値創造の物語の存在なしには説明できないし、バブルの頃、多くの日本人の信念の一部だった「土地神話」も現実に多大な影響を与えた物語だった。

これらの要素は現実の経済にどのような影響を及ぼすか。
詳しくは、この本を読んでいただきたいが、一番コンパクトに5要素を使った現実説明の例は次のような1890年代のアメリカの不況を説明するストーリーだ。

「1890年代の不況を理解するには、われわれのアニマルスピリット理論のあらゆる要素が不可欠となる。安心の崩壊が経済的な失敗の物語の記憶と関連するが、その物語の中には不況に先立つ年月に起きた腐敗増加の物語も含まれる。経済政策が不公平だという感覚が高まり、消費者物価下落の結果を理解できないという貨幣錯覚が生じる」(p87~p88)

もちろん、これは説明の概要で、この後、具体的な事例の説明がある。
本書では、現在の金融危機とその後の経済政策についても大きなページ数を割り当てて説明を試みているので、現在の経済を理解するためにも、ご一読をお勧めする。

お金の運用とアニマルスピリット

5つのアニマルスピリットは、もちろん、お金の運用にも関係するはずだ。例を探すのはさほど難しくない。

「安心」か、そうでないか、という二分法で「これは安心だ」と決めつけて損失の確率・期待値を無視して投資を決める人は少なくない。たとえば、個人向けの社債や劣後債などは、多くの場合、確率や期待値を計算して投資するようなプロが買わないから、手間の掛かる個人に向けて販売されているわけだが、これを買う投資家の意思決定は、予想されるデフォルト確率と利回りを較べるというようなものではなく、「○○○○○○なら、大きな会社だし、たぶん大丈夫だろう」という安心の決めつけがベースになっていると推察される。

逆に、バブルが崩壊して、投資で損をした人の物語が説得力を持つような時期には、投資における「安心」が大幅に後退するので、かつてなら手が出たような割安な株価にも投資家は手を出せなくなってしまう。

隣人が投資で儲けている場合、それが羨ましいという感情の中には、自分もいい思いをするのでなければ「公平でない」という感情が潜んでいる。金融や不動産のセールスマンは、見込み客のこうした感情につけ込むことが巧みだ。たとえば節税用の投資案件のセールスマンは、顧客の同僚や同業者がいかに有利な節税をしているかを巧妙に強調する。

また、バブルの末期によく起こりがちな、金融マンの高給への反感や、にわかにお金持ちになった「IPO長者」への処罰欲求などの「公平」意識に起因する感情は、場合によっては政策レベルでの影響を持ったりもする。

他人の富に対する嫉妬の感情に対しては、自分で意識的に相当の距離を取ることが冷静で的確な投資行動のためには好ましいが、「腐敗と背信」と言いたくなるもののレベルを観察していると、マーケットの行き過ぎが分かることがある。80年代の財テク・バブルを後押しした違法行為である「握り」の横行、粉飾決算に使われてこれを扱った外資系金融マンをお金持ちにしたデリバティブのビジネスの行き過ぎ、近年のある種の不動産金融のビジネスに関わった人たちの人材の質、などを見ていると、「いつ」と定かにいうことは難しくとも、「このビジネスはそろそろ末期だな」と思わせるものがあった。狡いことをやっている人々の収入が、彼らの能力や貢献に較べて不当に高いという状況は、どこかで価格の歪みが起こっていることの有力なサインだ。

そもそもインカムゲインとキャピタルゲインを合わせて損得を判断することが難しい投資家が多いくらいだから、「貨幣錯覚」ももちろんある。デフレ下の低金利は、実は有利な実質金利を意味している場合が多々あったのだが、「こんな低金利ではやっていられない」という感覚の下に、「貯蓄から、投資へ」暴走して一敗地にまみれた、可哀想な人(特に理解が乏しいという意味で)は少なくない。こうした人たちは、実質価値や、将来のフェアな価値の計算を意識するようにならないと、何度でも、同じような失敗に陥るだろう。

その他、分配金の多寡だけで有利不利を判断したり、高金利通貨の債券や預金は期待リターンが高いと無条件で信じたりするような人たちも、実質価値や正確な損得が計算できずに、印象で損得を判断しているという意味では貨幣錯覚の支配下にある人の同類だ。

また、株式市場でも為替市場でも「物語」は重要だ。物語の出来によっては、実はツマラナイ会社が高成長企業に過大評価されて巨大な時価総額を持ってしまったりすることが株式市場ではよくあるし、先に挙げた日本の「土地神話」のように、控え目に見ても数百兆円単位のミスプライスを創り上げた超一級の物語もあった。

近年、日本株式市場における日本人機関投資家の影響力の低下もあって、日本株に関して、かつての「ウォーターフロント」とか「国際金融都市東京」といった大きな影響力を持つ物語が生まれなくなったが、投資家はそろそろ次の物語を求めているような気がする。

「安心」、「公平」、「腐敗と背信」、「貨幣錯覚」、「物語」の5つは、役割や理論的抽象度などが異なる、正直に言ってあまりスマートとはいえない概念の羅列だが、その分、現実に近いので、投資家あるいはビジネスパーソンは、手帳にでもメモして、折に触れてチェックしてみる価値があるのではないだろうか。

(理屈好きの方への補足)行動経済学・ファイナンスとの関係

「アニマルスピリット」で著者達が取り上げた5つの概念とその影響は、「フレーミング効果」、「プロスペクト理論」、「オーバー・コンフィデンス」、「双曲割引」といった、行動経済学、行動ファイナンスの分野で知られた概念と既存の経済学を組み合わせると相当程度説明できるように思う。つまり、両者には少なからぬ重なりがありそうだ。

たとえば「貨幣錯覚」は、名目額を中心に置いて経済的な意思決定をするフレーミングの間違いだし、その下での賃金の下方硬直性は参照点に較べて「損」をすることを重く評価するプロスペクト理論の前提条件(価値関数)で相当程度説明できる。

「公平」もフレーミングされた一種の参照点に対する拘りだし、「物語」はある意味でフレーミングを作る行為そのものだ。他人との比較で何を公平と感じるのか、あるいは、どんなストーリーを現実に重ねるのかという精神作用は、結果として合理的経済行動からの逸脱につながっているが、「感情」に訴えかけるいわば前処理の段階は高次の精神的機能なので、これらを「アニマルスピリット」と呼ぶのは、どうもしっくり来ない面がある。もちろん、冒頭でも触れたように、「ケインズの(言った)アニマルスピリット」として従来使われてきた概念とも大きな隔たりがある。

また「腐敗と背信」は、それ自体は倫理的に悪くはあってもある種の経済合理性を持った行動であり、エージェンシー問題を分析する枠組みなどで扱うことができる、割合古典的な経済問題だ。ただ、市場や経済の状況と「腐敗のサイクル」ともいえるような、腐敗の混じり具合・行き詰まり具合との間の現実観察に基づいた関連性は、単純にゲームやエージェンシー問題に押し込むと面白くない。

個人的なものと社会的なものの両方を含めたストーリーとそれに関わる心理的な側面の重視、それに現実を「公平」や「腐敗」と解釈する倫理観や文化の重視も含めて、「アニマルスピリット」の方法論は、経済学の一部(主流となる一部である可能性も大きい一部)が普通の文科系の学問研究方法に回帰しつつあることの兆しなのかも知れない。

「アニマルスピリット」という語感から連想される原始的な感情の反応と一番よく結びつくのは「安心」だが、今後、この安心のレベルに対して影響する要素は何で、どのような要素が「安心乗数」にどのような影響を与えるのか、ということが研究されるようになるかも知れない。

「アニマルスピリット」と行動経済学は多くの重なりを持っていそうだし、両者で扱う概念は、整理統一が可能なのではないかと思われるが、そのためには、何を説明するためにどういう概念が必要なのかがもう少し明らかになるまで時間を置く方がいいのかも知れない。

かつて、「アノマリー」の研究(主に1970年代から1990年代前半)で集められたファクト・ファインディングが、徐々に整理されて行動ファイナンスにある程度体系化された(1990年代後半から2000年代初頭)ような流れが、マクロ経済学を含むある意味では主流の経済学の中でも起こるのかも知れない。

そういった期待も込めて眺めてみると、本書「アニマルスピリット」には、まだ洗練されていない格好の悪さがあるものの、アノマリーの研究にあったような新たな視点による現実へのアプローチの「わくわく感」(たとえばリチャード・セイラー「セイラー教授の行動経済学入門」(篠原勝訳、ダイヤモンド社)を読むと感じてもらえるだろう)がある。