金融危機は「新自由主義」の失敗か?

今回の金融危機は「新自由主義」の失敗によるものだという議論をしばしば聞くが、これは正しいのだろうか。

正直なところ、論者達が「新自由主義」という言葉で何を指しているのかが不明確なので、議論の正否を結論づけることは容易ではないが、「新自由主義」に替えて「自由主義」あるいは「資本主義」というなら、この議論は正しくない。

経済的な自由主義とは、完全な情報の下での自発的な取引は、取引当事者双方にとって利益になると考える経済思想のことで、その中で、資本主義は資本の私有を認める考え方のことだといっていいだろう。

サブプライム・ローンの証券化商品は、資本主義の枠組みの中で自発的に組成され取引されたが、取引の当事者双方にとって完全な情報の下に取引されたものではなかった。端的にいって、リスクの見積もりにインチキがあったし、この点が十分周知されていなかったばかりか、格付け会社は自らの利益のためにインチキに加担した。

もちろん、インチキを行った側だけに問題があるわけではない。依頼先からフィーをもらう格付け会社の格付けが、どの程度信頼に足るものか、ということを十分考えずにこれを利用した、プロの投資家も不注意であった。

また、投資銀行のボーナスやヘッジファンドの成功報酬のような「コール・オプション」(原資産はビジネス上の「稼ぎ」)について、資本や資金の出し手は十分な知識や情報を持っていたとは言い難い。考えてみるに、投資銀行の株主のような「資本家」も、投資銀行の経営者や社員に「カモられてしまった」のが今回のサブプライム問題だった。今回の問題が起きたのは、「資本」が横暴に振る舞ったからというわけでも労働者を搾取したからというわけでもない。株価の下落を見ても分かる通り、資本家の多くも被害者なのである。

取引における知識や情報が不十分でも自由に取引をすべきでその結果を尊重すべきだというような「愚かな自由主義」が「新自由主義」だというなら、冒頭の命題にも賛成の余地があるが、たとえば新自由主義の旗頭と目されることの多いミルトン・フリードマンも、そのようなことは言っていない。

エージェンシー問題としてのサブプライム問題

サブプライム問題、もっと大きくいうと今回の金融危機は、リスクを過剰に拡大した金融マン達の暴走によって起こった。同時に、リスクの不当な拡大を見過ごした金融監督当局(主にアメリカの)にも責任があるが、これは副次的なものだ。

直接的に問題だったのは、金融マンのボーナスや金融機関経営者のストック・オプション、それにヘッジファンドの成功報酬といった「コール・オプション」の性質とフェアなプライシングが世間に十分理解されていなかったことだ。

一般に、エージェンシー問題とは、プリンシパル(委託者)の委託を受けたエージェントが、委託者の利益のために行動しないことによる取引の失敗のことだ。これは、エージェントとプリンシパルの間に利害の対立があり、同時に両者の間に情報の非対称性(通常、エージェントの方が情報は豊富だ)があることによって起こる。

たとえば、経営者は株主のエージェントだが、常に株主の利益を最大化するように行動するとは限らない。株主価値の増大よりも自己保身に重きを置く経営方針を採ることがあるし、株主の目の届かないところで自分のための無駄遣いをすることもある。

同様に、いわゆる投資銀行やヘッジファンドでは、金融マン達が、資本家や顧客の無知につけ込んで、成功報酬のコール・オプションを使って過大なリスクを取る形で彼らの富を盗み出す行為がしばしば行われている。

サブプライム問題は、大規模で集団的なエージェンシー問題によって引き起こされたのであり、資本主義や自由主義の原理が理由で起きたのではない。

なお、政府が強い権力を持った社会主義体制下では、官僚と国民の間に巨大なエージェンシー問題が存在する(たとえば旧ソ連はエージェントたる政府が暴走して資源配分の効率性を損なった)。さらに、この問題に対して市場のチェックが働かないので、最後には政府が崩壊するに至った国もある。エージェンシー問題の深刻さは、市場経済の方が「まだまし」で済むというのが現実だろう。

エージェンシー問題を解決する一般的且つ万能の手順は、筆者の知る限り存在しない。原因から考えて、エージェンシー問題の解決は、取引に関わる情報(知識も含めて)をより完全に近づけることと、エージェントとプリンシパルの利害の方向性を近づけることの二つによるしかないが、後者が不可能な場合に、前者のコストを誰が負担するかが、エージェンシー問題の難しいところだ。

今回のような金融危機の再発を防ぐには、たとえば金融商品に関するより一層の情報開示が必要だろう。たとえば金融商品に関する情報開示の強化を強制することは、取引に必要な情報コストの低減につながる、自由主義的にも「良い規制」だ。騙しもインチキも許容するような単なる自由放任は、自由主義の趣旨に反している。

個人の資産運用とエージェンシー問題

ところで、資産運用の世界には、方々にエージェンシー問題が存在する。

例えば、投資信託にあっては、投資家(投信用語では受益者)がプリンシパルで、運用会社はエージェントだ。両者の利害が必ずしも一致しないことから、ここにもエージェンシー問題の存在が示唆される。

成功報酬は、時にはこの種のエージェンシー問題を改善する方策になりうるが、成功報酬の仕組み自体が持つ情報の非対称性が、別のエージェンシー問題を生む要因にもなりうる。

加えていうと、運用会社がプリンシパルで、ファンドマネジャーがエージェントであるようなエージェンシー問題も存在する。運用会社として好ましいファンドの運用方針と、当該ファンドのファンドマネジャーにとって好ましい運用方針が大きく乖離することがしばしばあり得る。

現代の生活にあって、お金を払ってプリンシパルとしての権限を買い、他人をエージェントとして雇うことを忌避するのは現実的ではない。人は他人を使わずにはやっていけない。しかし、プリンシパルの権利は、プリンシパル自身がぼんやりしていても十分に実現する訳ではないことに注意が必要だ。

一般論として、プリンシパルは情報の非対称性に注意を払い、できるだけこれを小さくすることが大切だし、エージェントを簡単に信用し、彼らに安易に依存してはいけない。

金融商品への投資に関しては、「自分が完全に理解できないものには投資すべきでない」とか「金融商品と利害関係のあるアドバイザーにアドバイスを求めるべきではない」といった一般常識を尊重することがこれに相当する。

金融に関係する全ての個人がプロもアマチュアもこの程度に常識的で慎重あったなら、今回のような典型的で単純なバブルが、これほどまでに大きくなることはなかったのではないだろうか。バブルは「慎重さ」だけで避けきれるものではないが、もう少し軽く済んだのではないか、という感じは残る。