バフェット氏の経歴
(1)15歳の農場オーナー
バフェット氏は1930年、オマハという米国中西部の地方都市に生まれました。幼少期から数字に強く、雑貨店を営んでいた祖父や株式の仲買人だった父の影響もあり、「お金」に対して強い関心を持っていました。
愛読書の『1000ドルを儲ける1000の方法』を片手に、新聞配達や中古ゴルフボールの販売などでお金を貯めたバフェット少年は、11歳の時には初めて株式を購入し、15歳の時には農地を購入し人を雇っていたそうです。
若くして「人に働いてもらう」ことの魅力を知った彼は、投資の道を究めようと、コロンビア大学のビジネススクールで教鞭をとっていた「バリュー投資の父」ベンジャミン・グレアムの下で学びます。
卒業後は父の証券会社やグレアムの運用会社で働いた後、26歳で親族や知人からお金を集め、投資パートナーシップを立ち上げます。これを基に数えきれないほどの投資案件での成功といくつかの失敗を経験し、現在のバークシャーの繁栄を築き上げました。
そんな彼にとって最大の失敗案件…それは実はバークシャー・ハサウェイの買収です。
(2)シケモク投資から「バフェット流」投資へ
バークシャーはもともと米国北東部の紡績会社でした。バフェット氏は同社の株式が清算価値(企業が事業継続を諦め保有資産を全て売り払った際に得られる金額)を大きく下回って取引されていることに目を付け、同社株を買い進めました。決して同社を保有したいと思っていたわけではなく、経営者に適正な価格で買い戻させることを期待した取引でした。
1株当たり7~8ドルの取得価格に対し、一度は11.5ドルでの買い戻しを約束させたものの、強欲な経営者からは11.375ドルのオファーが届きました。これに腹を立てた彼は、逆に同社株を大きく買い集め、1965年にはついに経営権を握ってしまいます。
彼はこのような投資手法を「シケモク投資」と呼んでいます。道に落ちているタバコを拾えば、それは多少汚れているかもしれませんが、最後の一吸いはタダで吸うことができるという考え方です。
しかし、1960年代の米国紡績産業は安価な輸入品に対する価格競争力を完全に失っており、二度と火が付くことはありませんでした。わずか0.125ドルを妥協できなかったことで、それから約20年にわたり巨額の赤字を出し続けるこの事業に苦しめられることになったのです。
“そこそこのビジネスを素晴らしい価格で買うことを忘れなさい。その代わりに素晴らしいビジネスをそこそこの価格で買いなさい”
長年のパートナーであるチャーリー・マンガー氏からのアドバイスとバークシャーでの失敗により、彼はシケモク投資を捨て、強いブランドを持つ企業を永続的に保有する、今日知られるスタイルに転換しました。その投資主体としてバークシャーを活用し、社名もそのままにしているのは、「二度とこのような失敗はしない」という決意の表れだと思います。