22日の東京株式市場の日経平均株価(225種)終値は3万9,098円となり、バブル経済期の1989年12月29日以来、34年2カ月ぶりに史上最高値を更新しました。

 日本経済は1990 年代初頭のバブル経済崩壊以降、「失われた30年」とも呼ばれる長期停滞を経験。100兆円といわれる不良債権の処理や円高が重しとなり、日経平均はリーマン・ショック後の2009年3月に7,054円の戦後最安値を記録するまで右肩下がり基調が続きました。

 しかし、リーマン・ショック以降は、世界経済が回復に向かう中で、大規模金融緩和を柱とする第二次安倍政権の誕生などで日経平均は上昇基調に乗りました。最近では生成AI(人工知能)ブームで半導体関連が株高のけん引役となり、最高値更新に押し上げました。バブル崩壊からこれまでの34年間を振り返ります。

1990年代初頭 バブル経済崩壊

 投機的な取引で土地や株式などが実体からかけ離れて上昇を続ける「バブル経済」が崩壊しました。バブル経済は1980年代後半から続きましたが、日本銀行が1989年5月以降、急速に利上げを進めたことから、日経平均は1989年末の大納会に付けた3万8,915円をピークに下落しました。

 大蔵省(現財務省)が1990年3月に銀行の不動産融資を制限する行政指導を実施したことで、地価も下落していきました。銀行では、貸し付けの担保とした不動産の資産価値が暴落し巨額の不良債権が残りました。「貸し渋り」や「貸しはがし」といわれるように企業への融資態度が硬化していき、成長産業に資金が供給されず、日本経済は失われた20年や30年と呼ばれる長期停滞の時代に入ります。

1995年 阪神・淡路大震災

 1月17日午前5時46分に淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生。最大震度7の直下型地震が関西地方を襲いました。死者6,434人、行方不明者3人、負傷者4万3,792人という極めて深刻な被害をもたらしました。国土庁(現国土交通省)の推計で約9兆6,000億円に上る経済損失が生じました。震災の影響もあり、地元の兵庫銀行が銀行としては戦後初めて破綻しました。

 外国為替市場の円相場は当時、前年からのメキシコ通貨危機を受けて円高ドル安が進行していました。さらに震災後に日本の保険会社が保険金払いのために外貨資産売却による円買いを進めるのではないかといった投機筋の思惑買いなどが入り、一段と円高が進み、4月19日には1ドル=79円75 銭を付けました。震災と円高が重なり、日経平均は7月3日には1万4,485の安値を付けました。

1997年 山一証券が経営破綻

 当時の四大証券の一角、山一証券が11月24日、自主廃業を発表し、大蔵省に営業停止を届け出ました。「飛ばし」と呼ばれる損失隠しで簿外債務が拡大、総会屋への不正な利益供与など不祥事が次々と表面化し、経営破綻に追い込まれました。それに先立つ17日には北海道拓殖銀行も巨額の負債を抱えて破綻していました。

 この年の7月にはタイの通貨バーツが暴落し、アジア通貨危機が発生。国内では輸出産業に打撃となったほか、金融不安が拡大し、銀行や証券などの破綻の一因となりました。1997年末の日経平均の終値は1万5,258円となり、前年末から約21.2%下げました。

 翌1998年には日本長期信用銀行(現SBI新生銀行)と日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)がバブル期の不動産やノンバンク向け融資の不良債権化で債務超過に陥り、一時国有化されました。日経平均は1998年末に1万3,842円まで下落しました。

 2003年には、りそな銀行の自己資本比率が国内基準を下回る事態が明らかになり、同行に1兆9,600億円に上る公的資金が注入されました(旧大和・あさひ銀行時代の分を含め累計3兆1,280億円の公的資金残高がありましたが、2015年6月に完済)。

 金融危機の下で都市銀行の合併も進み、三菱UFJフィナンシャル・グループ、三井住友FG、みずほFGの3メガバンク体制が生まれることにつながりました。

2000年 ITバブル

 2000年前後の米国を中心にIT企業の株価が急上昇しました。米国の低金利政策などを背景にインターネットへの関連投資が過熱し、シリコンバレーでベンチャー企業設立が相次ぎました。日経平均も2000年2月から4月に一時2万円台を回復する動きを見せました。

 しかし、IT企業の多くは利益の裏付けがないまま資金を調達しており、不正会計なども発覚。米国の金融政策が引き締めに転じたのを機にIT関連銘柄は暴落しました。 日経平均も2001年8月末には1万0,713円と1万円の大台割れ寸前まで下げました。

2001年 米同時多発テロ

 9月11日に米国東部で旅客機4機がハイジャックされ、世界貿易センタービルや米国防省に次々と激突、1機はペンシルベニア州ピッツバーグ郊外に墜落しました。このテロによって3,000人近くの命が奪われました。テロ翌日の12日に、日経平均は1万円の大台を割り込みました。

 当時のブッシュ政権はオサマ・ビンラディンをリーダーとするテロ組織「アルカイダ」による犯行と特定し、「テロとの戦い」を宣言。ビンラディン容疑者の身柄引き渡しを拒否したタリバン政権のアフガニスタンに攻撃をしました。

 米国はさらにテロとの戦いを押し進めます。2003年3月に米英など有志連合によるイラク戦争に踏み切りました。イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有し、アルカイダと手を結んでいるとして、国連の安保理決議を経ずに開戦しました。その後、米政府の調査でフセイン政権とアルカイダとのつながりや大量破壊兵器の保有は誤情報だったことが判明しました。