投資の定番テキスト
大学生に投資の授業をしなければならないという理由で、筆者は久しぶりに大型書店の金融書籍コーナーを訪ねてみた。バブルの後期頃からの投資理論ブーム(80年代末)や、「ブラック・ショールズ式」が流行った金融工学ブーム(90年代後半)のころには、投資理論の書籍が毎月のように出版されていたが、今は、内容的に落ち着いたのか、投資そのものへの関心が一頃よりも低調なのか、これはという新しい本の発見は意外なほど少なかった。
そんな中で見つけた、見落としていた大物が、投資の定番テキストの最新版である『インベストメント 上・下』(ツヴィ・ボディ、アレックス・ケイン、アラン・J・マーカス著、平木多賀人、伊藤彰敏、竹澤直哉、山崎亮、辻本臣哉訳。マグロウヒル・エデュケーション発行、日本経済新聞社発売)だった。
原著の第8版の翻訳で、今年の3月に発売された二冊組だ。原著は、1989年、つまり20年前に初版が出ており、最新版が発行されたのは昨年のようだ。この種の本は、時間と共に使用するデータが古くなるので、この新しさは魅力的だ。もっとも、長期の投資リターンについて説明した第5章(今回の改訂版の読み所の一つだ)は2005年までのデータで書かれているので、残念ながら2008年に発生した世界的な金融危機を反映したテキストにはなっていない。
本のレベルは、帯に「MBA、学部上級クラスの授業で長年採用されてきた、インベストメントのロングセラーテキスト」とある通りだが、例題としてCFA(米国の証券アナリスト資格)試験の問題が多数採用されているように、証券アナリスト資格試験向けの副読本的なテキストでもある。
我が国の証券アナリスト資格(「CMA」と略されるようだ)試験向けのテキストで、こちらも最近改訂された『新証券投資論 I』(小林孝雄、芹田敏夫著、日本証券アナリスト協会編)、『新証券投資論 II』(浅野幸弘、榊原茂樹、伊藤敬介、荻島誠治、諏訪部貴嗣著、日本証券アナリスト協会編)と比較すると、『インベストメント 上・下』の方が記述に活気があって、実例や投資に関するトピックが多いので、投資家の読書対象としてはこちらをお勧めする。
一般論としていえることだが、大学生・大学院生用のテキストは米国の著者によるものがサービス精神にあふれていて読みやすい場合が多い。独習用には英語であっても、こちら、と思うことがしばしばある。一方、日本人の著者によるものは、文体が教科書的で硬いと感じることが多い。ただし、日本人の著者が書いたテキストは各種の理論がコンパクトにまとまっていて、復習用・参照用には便利な場合が多い。選択のコツは、参照文献リストと索引が丁寧なものを選ぶことだ。
『新証券投資論 I・II』は以前の『証券投資論』(浅野幸広他著、東洋経済新報社)よりも記述が易しく丁寧になっているが、投資の具体的な説明は『インベストメント 上・下』の方が豊富だ。この点は、後者の具体例が主に米国のデータであり、ファイナンス研究の成果の大部分が米国発のものであることが大いに関係しているように思う。
テキストとしてのレベルは『インベストメント』の方がやや高いし、取り上げている題材の幅もこちらの方が広い。ただ、ざっと見た印象だが、『新証券投資論 I、II』は国際投資に関する記述が詳しく、投資のベース通貨が円である日本の投資家としては、こちらを読んでおきたい面もある。ファイナンシャル・プランナーのようにお金の運用に関して他人にアドバイスをするような仕事に関わる方は、両方持っていて、適宜参照しながら活用すべきだろう。
翻訳版の『インベストメント 上・下』は、現在最新の原書と版が同じだし、価格が上下各5000円と、原書(ハードカバーだが都内の大型書店で2万5千円以上した)を買うよりも随分安いので、これはなかなかお得な感じだ。一般投資家には、何はともあれ、この上下二冊をお勧めする。
定番テキストを読む効用
一般投資家が学生用のテキストを読むことの効用はいくつかあるが、何といっても最大のものは、正確な投資知識が得られることだ。
これまでにも何度か書いたが、たとえば『ウォール街のランダムウォーカー』(バートン・マルキール著、井手正介訳。日本経済新聞社)のような有名な本でも、「これは間違いだ!」という記述がある場合がある。特に、投資理論のバックグラウンドのないファイナンシャル・プランナーやマネー・ライターが書いた初心者向けの本には、著者の素人直感や金融業界がビジネスの為に伝えようとしている誤解を、著者がそれと意識せずに書いているので、誤解や勘違いに気付くための基礎知識としても一通りの理論に触れておくことが役に立つ。
特に、投資の理論をはじめとするファイナンス研究の世界は、実務と研究の距離が近い時代が長かったので、アカデミックな研究を学ぶことがそのまま実務的なノウハウに直結している場合が多い。
たとえば、マルキールの前掲書は全体としていい本だが、「長期投資でリスクが縮小する」という嘘がかなり念入りに書かれていて、これは、同様の話が運用の入門書だけでなく、運用ビジネス関係の各所で繰り返されているが、『インベストメント』の第5章「歴史から、リスクとリターンを学ぶ」を読むと「リスク・ポートフォリオへの投資は、長期ではより安全になるということにはならない。逆に、リスク投資の保有期間が長くなればなるほど、リスクは大きくなる」(p207、第5章のサマリーの5.7番より)と書いてある。
この章は、以前出ていた同書の翻訳にはなかった章で、米国を中心に過去のアセット・クラス別のリターンデータがまとめられているので、有益だ。
もっとも、長期投資とリスクの関係については、過去の版(第4版)の翻訳である『証券投資 上・下』(堀内昭義監訳、東洋経済新報社。2004年2月刊)の第7章の付論C「時間分散の誤り」の方が直截に書いてあって、間違いの意味がスッキリ分かるメリットがあった。
新しい理論の取り込み
翻訳ベースではあるが、旧版『証券投資 上・下』と新版『インベストメント 上・下』の構成を較べ、面白そうな所を拾って比べ読みするとなかなか面白い。
新版になる『インベストメント 上・下』は、行動ファイナンスやファマ・フレンチの3ファクター・モデルのような新しいファイナンス研究を明確に取り入れている。新しいといっても、それぞれ10年と少々前くらいまでの話だが、この点でも『インベストメント 上・下』はいい。『新証券投資論 I・II』は、理論編にあたる上で、十数行行動ファイナンスに触れて、直ぐに「そうした研究の解説は行動ファイナンスの書籍に譲って」(p12)と行動ファイナンスを理論編の中に取り込まないことを宣言している。この点は、現代の投資のテキストとしては、少し物足りない。
『インベストメント 上・下』は、第12章に「行動ファイナンスとテクニカル分析」という章を置いて、行動ファイナンスについても一通り解説している。裁定の不完全性と、人間の判断のバイアスのモデル化という行動ファイナンスの理論構成の二本柱を押さえた説明にはなっているが、著者達は行動ファイナンスの重要性或いは有効性に関して今一つ懐疑的であるような印象だ。
このテキストは、もともと伝統的なファイナンス研究を紹介する目的で長く書き継がれてきたものだし、また、テクニカル分析と一緒くたに扱った章の構成から見ても、著者達は行動ファイナンスに対してあまり共感的ではない雰囲気を汲み取ることができる。もっとも、こうしたオーソドックスなテキストでも無視することができないくらい、行動ファイナンスの研究の重要性が認識されつつあるということでもあるように思える。
この本の行動ファイナンスに関する説明については、別の機会に一度取り上げて検討してみたい。私見では「いいところまで来ているが、あと一歩で急所を一箇所逃している」ように思える。
旧版の魅力
今回、新版の『インベストメント 上・下』と共に旧版の『証券投資 上・下』を見て気が付いたのだが、先ほどの時間分散に関する説明の他にも、旧版にあって、新版にない記述で、興味深いものが幾つかある。
特に、第27章「顧客のポートフォリオの運用」、第28章「退職資産及び年金基金の運用」、第29章「投資会社の運営」といった運用ビジネスに関わるパートが、新版ではごっそり抜けているのは惜しい。
ファンドマネジャーなど投資のプロには、旧版の『証券投資 上・下』も是非入手して手もとに置いておくことをお勧めする。
一般投資家には、何はともあれ、『インベストメント 上・下』を入手して興味の持てる章からお読みになってみることをお勧めする。投資の愛好者が集まって、読書会のような形で読むのもいいだろう。読み物的な本を幾ら読んでも手に入らない正確な知識を身につけるためには有効な「投資」だと思う。