「新しい資本主義」という言葉
岸田文雄首相は、就任時から「新しい資本主義」という言葉を多用している。深く気に入っているのだろう。2022年5月5日に外遊先のロンドンで投資家向けに行った講演でも、「一言で言えば資本主義のバージョンアップだ」という勇ましい宣言と共に「新しい資本主義」(英語の表現は「new form of capitalism」だったらしい)の説明に言葉を割いている。
しかし、岸田氏の言う「新しい資本主義」が何を意味しているのか、説明できない人が殆どなのではないか。ご本人も具体的な定義を一度も説明していない。岸田氏は、首相に就任してから直ぐに「新しい資本主義実現会議」という有識者会議を作った。同会議のホームページで、会議の討議資料を見ても、多様なテーマが取り上げられていることは分かるが、そもそも「新しい資本主義」がどのような概念のものなのかに関する定義はまだ見えてこない。具体的な中身がないまま「新しい資本主義」という言葉だけが先行的に流通している。
もっとも、政治的なキャッチフレーズには、中身がはっきり定義されないまま流通する言葉は少なくない。
記憶に新しいところでは、小泉純一郎首相の時代によく聞いた「構造改革」或いは単に「改革」といった言葉にもそうした面があった。しかし、構造改革には、実現の程度はともあれ、「民間で出来ることは民間(の経済原理)に任せる」といった考え方の方向性がある程度明確だった。
「新しい資本主義」は「構造改革」と較べて、格段に曖昧で中身が分からない。そして、そもそもその言葉が適切なのかについて疑問がある。
一方、言葉は曖昧でも、この言葉をめぐってなされた議論やその報告書は、現実の政策に何らかの影響を与える可能性がある。率直に言って、多くの投資家は心配に思っているのではないだろうか。「新しい資本主義」という言葉で語られている内容について、筆者が持っている違和感を本稿では説明してみたい。
尚、本稿は、政治的な批判や賞賛を全く意図していない。筆者は、本稿で、「岸田首相のここがダメだ」と批判する意図はないし、「岸田首相の新しい資本主義は、たぶんこういうことなので素晴らしい」と媚びたいわけでもない。
日本における二つのシステム
岸田首相が言う「新しい資本主義」に筆者が違和感を持つ最大の理由は、日本の社会・経済が資本主義的には運営されていないからだ。
この点には、少々丁寧な説明が必要だろう。
筆者は、日本の社会・経済が、比喩的に言って上半身と下半身で別のシステムで運営されていると考えている。資本主義的に運営されている「下半身」と、縁故主義的に運営されている「上半身」だ。
上半身と下半身は比喩であって、優劣を意味するものではない。大まかに言って所得や資産などの「経済力」で、上半分を「上半身」、下半分を「下半身」だと考えて頂きたい。
このあたりで「資本主義」という言葉が何を意味するかをはっきりさせておくが、筆者は、労働者(労働力)と会社(設備等の資本・生産手段)が自由に売り買いされて競争的に移動する経済システムを「資本主義」だと考えている。
図1は日本経済全体を大まかに会社のように考えた時の概念的な見取り図だ。
(図1)日本経済の二つのシステム
マルクスにリアリティを感じる層
下から見ていこう。下半分については、現在の日本の経済システムはかなり純粋で古典的な資本主義の原理が働いているように見える。
いわゆる「非正規」社員として働いていたり、アルバイトだったり、ギグ・ワーカーだったりするような勤労者と、彼らとの競争関係に晒されている正社員の中の低所得層にとっては、現在の日本の労働環境は、かつてカール・マルクスが考えたような「資本家に搾取される労働者」の状況に近い。
雇い主から見て彼らの一人一人は「交換可能」であって、この階層の勤労者たちは相互に競争させられている。雇用が不安定であると同時に、賃金が上昇しにくい。
こうした状況に置かれている人達にとって、かつてのマルクスの主張が心に響くことは自然だ。近年になって、マルクスを読み直すような趣旨の書籍や論考が意外なまでに広い支持を得ていることの背景はこの辺りにありそうだ(例:斎藤幸平「人新世の『資本論』」集英社新書、など)。
例えば、スマートフォンでオーダーを受け、食品をリュックに背負い、自転車でデリバリーし、配達の時間や状態を評価されて、それが報酬や次の雇用機会につながるような仕事をしている人の境遇は、マルクスも驚くのではないかと思うくらい古典的な資本主義の下での「労働者」だ。
資本主義の「外」にいるエリート
一方、「上半身」に属する人々の状況は大きく異なる。国の政策や予算を動かす官僚や政治家、企業の行動を決める経営者や幹部社員及びその候補者である(相対的に高所得の)正社員たちは、メンバーが極めて固定的で安定している。
大企業にあって、いったん雇用された正社員が解雇されることは稀だ。稀であるがゆえに、「追い出し部屋」のような社員の扱い方がニュースになる。
良し悪しは別として、日本では、労働力が十分商品化されていない。少なくとも正社員の解雇と採用の自由がないシステムを「資本主義」と呼ぶのは不適切だ。
近年、さすがに社会的な必要性を反映して転職が増えては来たが、官庁や大企業にいったん就職すると、その後の数十年に亘って雇用が確保される。
例えば「大企業正社員」は、いったんなってしまうと「そこそこ以上の経済的人生」が保証される。そこから離脱すると将来の安定を失う。収入の良い大企業に就職できる有能な若者が「起業」にチャレンジしない理由は、一つには、その時なら確保できる大企業正社員の身分を放棄することの「機会コスト」の存在だろう。そして、いったん放棄した大企業正社員の立場を再び確保することは難しい。こうした社会では、有能な人でもリスクを取りにくい。
そして、雇用が安定的で収入が高い就職が出来るのは、いわゆる「コネ」がある人だったり、良いとされている大学の出身者だ。同じ大学の出身者どうしが便宜を図り合うような「○○会」と称する同窓会組織もおおっぴらに存在して、就職・採用や会社内外のビジネス的人間関係に威力を発揮している。
人とその人事を見ると、日本の経済的上層部は「縁故主義」の社会だと理解するのが適切だと思う。資本主義ではないし、社会主義でもない。
「縁故」の内容は、家柄、学歴(学校)、地縁、同じ職場で働いた同僚、など様々だが、この階層の労働者は外部の労働者との競争に直接的に晒されることは稀だ。日本の社会と経済は、主にこうした資本主義的な競争の「外」にいる人達の意思決定によって動いている。
日本の社会システムについて、時に自嘲的に「社会主義だ」と揶揄されることがある。しかし、例えば郵便局を考えるなら、計画経済的な社会主義なら結果的な当否は別として「効率的」な状態を計算・計画して全国の郵便局組織をトップダウンで改造しただろう。しかし、現状は、ゆうちょ銀行、かんぽ生命、日本郵政、それぞれの株式売却が進んでいない。郵便局及び郵便局長の意見や利害に配慮した結果だと思われるが、「資本主義」でも「計画経済」でもなく、「縁故」が力を持っていることがよく分かる格好のサンプルだ。
会社に関する「資本主義」
また、資本主義では、労働者の商品化に加えて、会社自体が商品のように売り買いされる「会社の商品化」があるはずだ。
最終的に実現するのか、さらにそれは成功するのかについて不確実性はあるが、最近発表されたイーロン・マスク氏によるツイッター社の買収などは、資本主義が機能している好例だ。
他方、日本では、かつて堀江貴文氏が率いたライブドアがフジテレビ(現フジ・メディア・ホールディングス)の支配を狙って、当時フジテレビの親会社であったニッポン放送を買おうとしたが、社会の上層部からの圧力に阻まれた。
また、前述のように株式の上での郵政民営化は遅々として進まない。
倒産・廃業などに関しても、東京電力は将来の電気料金で原発事故の費用を払う仕組みで延命するし、東芝のような老舗企業は大規模で不適切な会計処理があっても、かつての山一證券のように自主廃業には追い込まれない。
どうやら、社会的に温存されるクラスの会社と、そうでない会社とがあるようだが、活発な会社やビジネスの売り買いは乏しいし、上位企業の新陳代謝も起こりにくい。
加えて、官僚組織は固定的なメンバーのもとに「入省年次」を基本に順送りで人事が行われる閉鎖的な人事運営がなされ、強力な利益集団を形成している。与野党を問わず二世、三世議員が多数存在する政治の世界が典型的に縁故の世界だ。
日本は、資本主義社会ではなく、個人的独裁者がいない権威主義国家なのだと考えると納得しやすい。独裁者の代わりの地位にあるのは米国であり、米国とつながっている官僚・政治家・ビジネスパーソンなどが集団で国を動かしている。そして、彼らを中心とした血縁から学閥などの強弱様々に張り巡らされた縁故によって社会が運営されている。縁故から逸脱することは様々な不利を招くので社会の「同調圧力」は強力だ。たとえば単なる「自粛の要請」がしばしば「法的強制」に近いレベルで機能する。
株式会社は多数存在するものの資本の論理による経営の交代は稀であり、「株主資本主義」は形だけだと考える方が適切なケースが多い。
いわゆる「成長戦略」として「規制緩和」が唱えられることはあるが、方々で「縁故」に阻まれるので、実現は遅々として進まない。
岸田首相の議論への違和感
岸田首相はしばしば、資本主義が、レッセフェール(自由貿易)から始まり、福祉国家を経て、新自由主義に至り、現在、新自由主義の下で格差の拡大や環境問題などにつながる外部不経済の問題が生じていて、資本主義が行き詰まっており、「新しい資本主義」が必要なのだというストーリーを語る。
確かに米国などを見た場合に、そのようなストーリーが当てはまる面はある。能力がある人はいくら稼いでもいいという「能力主義的資本主義」が浸透していて、経済格差の拡大と、社会の分断を招いている。
しかし、繰り返すが、正社員の解雇すら自由に出来ない仕組みは、労働力が商品化していないのだから、断じて資本主義ではない。
日本の社会・経済的意思決定に関わる集団には、資本主義は浸透していない。日本の社会・経済の運営が新自由主義的だという認識は完全な間違いだ。必要なのは、「資本主義の更新」ではなく、むしろ「資本主義的原理の導入」の方だろう。
他方、話を複雑にしているのは、非正規労働者を中心とする低所得な勤労者にとっては、日本は労働力が商品化されて、労働者が競争させられて、賃金が抑圧され、しかも社会的な再分配が貧弱な、「苛烈な新自由主義」に見えることだ。この層の人々にとっては「新自由主義者」という言葉は、金の亡者か悪魔の代名詞のような最悪の意味のレッテル貼りとして機能している。
この層に対して、所得や資産の「再分配」が必要だと考えているなら、岸田首相の認識には一理ある。
「新しい資本主義」という言葉を聞くと、「資本主義になっていない日本にあって、それは冗談か」という違和感を覚える一方、「しかし、富の再分配は必要」なのでまるごと反対はしにくい、という居心地の悪い心境になる。
経済成長と資本主義とセーフティーネット
過去30年くらいに亘って、米国経済が大きく成長する一方で、日本経済が停滞したことの大きな原因として、エリート層に対する資本主義的競争の不在が重要だったのではないかと筆者は考えている。
人口の減少や高齢化、マクロ経済政策などの失敗も重要だったと思われるが、スタートアップが低調で、イノベーションが起こりにくく、時価総額上位企業の顔ぶれが固定的、そして全体としての低成長といった日本経済の残念な特徴の背景には、「資本主義の不在」があった。
イノベーションや経済成長を作り出すためには、エリート層を資本主義的な競争に晒す能力主義的資本主義のエンジンが必要だろう。
但し、能力主義的資本主義には経済格差の拡大が副作用としてつきまとう。例えば、失業や起業の失敗のような事態に対する強力なセーフティーネットがないとまずい。例えば、ベーシックインカムのような仕組みや、広範な職業訓練の提供などが必要だ。「再分配」は大規模に必要だ。
但し、格差の解消や再分配を担う役割は政府のものであって、これを企業に求めることは能力主義的資本主義の浸透と矛盾する。
例えば、低所得な勤労者の実質所得の改善は、企業に賃上げを「要請」することで行うのではなく、公的な制度による所得や資産の再分配で行うべきだろう。
何れにせよ、日本の社会と経済を「一つの資本主義システム」だと理解すると、正解に辿り着く見込みはないように思われる。