国家安全条例が施行:香港政治の「北京化」が進む。外国人も注意が必要
現在、香港の地でこの原稿を書いています。私は2018年から2020年まで、香港大学に勤務し、主に中国政治や米中関係を扱っていました。2020年下半期に香港を離れた後も、コロナ禍をへて、毎年この時期に1週間ほど滞在し、香港社会の変遷について定点観測するように心がけています。
今回の香港再訪期間中、香港政府にとって、1997年の中国返還時に制定された「香港基本法第23条」に基づく「長年の悲願」であった国家安全条例が施行されました。昨年10月、香港政府による施政報告が同条例の立法を巡るタイムテーブルを発表、それから半年未満というスピードで、3月19日、立法会(日本の国会に相当)が同条例を可決しました。
投票人数89、賛成89、反対0、棄権0という結果。
2021年の選挙制度変更をへて、香港の議会は実質、民主派を含めた「野党」がいなくなり、言ってみれば、全員が「親中派」という構造になっていました。しかも、2020年、中国の全国人民代表大会が可決した香港版国家安全維持法の施行により、民主派や一般市民による抗議デモ、メディアによる批判報道などは厳しく制限されてきましたから、今回の条例可決は既定路線でした。
中国政府、およびその支配、指導下で動く香港政府は、野党、メディア、民主活動家などの批判、けん制、反対に遭わないことが制度的に保障され、もはや「やりたい放題」の状況になっています。
3月22日、李家超行政長官が同条例に署名、翌日、施行されました。
これらの流れを現地で観察しながら、印象的だったのは、李家超行政長官が「歴史的使命を果たした」と勝ち誇った同条例の施行日の朝刊にて、中国共産党の立場や政策の代弁に徹する『大公報』『文匯報』などに、共産党との良好な関係を維持したい「香港企業」が一面(あるいは半面)広告を続々と掲載していた光景。長業實業、恒基兆業地産集団、信和集団、嘉華集団、新鴻基地產、嘉里建設・シャングリラグループ、新世界発展などです。
これらの企業は、今回の国家安全条例を含め、自社が中国共産党の香港における政策を断固擁護する政治的立場を明確に保持し、発信することで、香港、および中国本土でのビジネスチャンスの拡大を狙っているのでしょう。
今後、日本を含めた外国企業も、香港で事業を展開する過程で、国家安全条例に対する見方やスタンスの提示を求められる場面が出てくる可能性は全く否定できず、今のうちから社内で議論や準備をしておくのが賢明だと思います。
同条例の施行は、2020年6月に施行された香港版国家安全維持法と補完関係にあるとされます。スパイ行為、国家機密の窃取、国家への反逆、反乱の扇動などが対象となり、最高刑が終身刑に設定。また、外国勢力が国家安全に危害を与えたと解釈されれば、最大で禁錮14年の刑が科されます。外国人にとっても無関係ではないということです。
国家安全条例は経済活動や司法を侵食するか
2020年の国家安全維持法、および今回の国家安全条例の施行により、香港における国家安全関連の法整備はひと段落したといえます。今後、少なくとも政治、およびそれに付随する、あるいはその影響を受ける分野において、香港経済、社会における各政策や事象は、中国本土と同様の基準で運行されることになるのが必至です。
私の周りでも、メディア、政府、教育といった分野を中心に、チャイナスタンダードで仕事をすることに嫌気がさし、辞職したり、海外に移住したりするケースが多発しています。また、今回香港で議論をした知人たちのほとんどが、「このような議論を公にはできない」「私と議論したことは口外しないでほしい」と直訴してきました。
まるで北京にいるような気分になったものです。
特に、子供がこれから学校に上がる市民たちの多くは、一家で海外に移住しているようです(英国国家統計局によれば、2022年、香港から英国に移住した市民は約5万2,000人)。これから英国へ移住する、二人の小学生を育てる中産階級の女性は、「共産党の愛国教育を実施する環境で子供を育てたくない。海外でどれだけ苦労してもいい。香港を離れる決心をした」と語っていました。
北京化する香港政治が、経済活動、ビジネス交流にどのような影響を及ぼすかについては、慎重な判断と検証が求められると思います。
李家超行政長官は「条例は安全と安定をもたらし、香港は企業や投資家にとってより魅力的な場所になる。香港はこれから経済に尽力する」と主張していますが、そもそも政治と経済が密接につながっているのは論を待ちません。
自由な議論や交流ができない、すなわち情報が円滑に流通しない空間において、健全なビジネスや投資ができるのか、というのはまっとうな疑問でしょう。
ボトムラインは、英国植民地時代からコモンローを採用する司法の独立でしょう。行政や立法側の立場や意向で、司法が翻弄(ほんろう)されるようであれば、外資の香港離れに拍車がかかると思います。
例えば、昨年5月、香港立法会は、国家安全に関わる訴訟について、当事者が弁護士を選ぶ権利を制限する条例の改正案を可決。従来は認められていた外国籍の弁護士の訴訟参加については行政長官の許可が必要になります。
しかも、刑事だけではなく民事を含めた全訴訟がその対象。これも国家安全維持法施行の流れにおける行動であり、今回の条例施行によって、「国家安全」という大義名分が経済や司法に与える影響は深まることはあっても、その逆はないでしょう。
チャイナウオッチの戦略的拠点としての香港の重要性
ここまで、国家安全条例の施行をクリティカルに論じてきましたが、あえて一歩引いて、より根源的な見地から香港の現在地と行き先を考えてみたいと思います。
香港は香港でなくなってしまうのか?
今回の定点観測で感じたことは、従来の香港はもはや過去の遺物と化した、しかし、香港はこれからも、独自の特徴と優勢を有する空間であり続ける、というものです。
香港政治が北京化し、自由や人権、市民社会の活力や包容性が明らかに後退しているのは事実です。一方、香港では、基本的には自由にインターネットにアクセスできます(公安当局などによる検閲や監視は強化されていますが)。香港社会では今でも広東語が主流です(中国本土で普遍的に使用されるマンダリンの普及と浸透は着実に広まっていますが)。
香港で使用される香港ドルは米ドルとペッグされており、足元、歴史的通貨安になっている人民元とは一線を画しています。国家安全関連の法整備や選挙制度の見直し、およびそれが経済活動や司法の独立に与え得る悪影響への懸念から、香港の国際金融センターとしての信用や地位は近年弱まっていますが、それでも、中国本土の上海や深センと比べれば、投資行為を取り巻く自由度や開放性、制度的先進性は比べものになりません。
そして、香港は依然として東アジア有数の「人種のるつぼ」であり、多元化、多民族共存社会という意味では、中国本土は言うまでもなく、日本や韓国といった地域の経済大国を優に上回っているといえるでしょう。
そんな中、政治的に制限が厳しくなっているとはいえ、「中国とうまく付き合う」という観点からすれば、香港の戦略的重要性は依然として君臨し続けると思います。
特に、私自身も関与する知的交流、チャイナウオッチという分野においては、中国本土とはますます付き合いづらくなっており、身の安全やプライバシーを含め、注意、警戒しなければならない局面が急増しています。本音ベースによる議論や発信も、制限というよりは、禁止されていると言っても過言ではありません。
だからこそ、制限付きとはいえ、香港はこれまで以上に重要になってくると思います。
今回議論をした香港大学の若い教師が語っていました。
「外国人が中国の政治、経済、外交等を理解し、中国人がそれらを外国に発信していく上で、香港は独自の役割を果たすことができる。香港政府がやらなくても、大学ならそれができる」
絶望を忘れず。希望を捨てず。
そんな気概を胸に、これからも香港社会と付き合い、その命運を見守っていきたい。
そんな思いを新たにさせてくれた、香港再訪でした。