1968(昭和43)年1月5日
プラハの春、東欧民主化の芽
1968(昭和43)年1月5日、東欧の社会主義国チェコスロバキアで政治の変革を唱える民主化運動が始まりました。同国の首都にちなんで「プラハの春」と呼ばれましたが、社会主義陣営の弱体化を懸念するソ連が軍事介入し、民主化の芽は摘み取られました。
共産党の一党独裁を定めるチェコスロバキアで、最高指導者としてドゥプチェク氏が共産党第一書記に同年、就任しました。ドゥプチェク氏は検閲を廃止し、党綱領に「人間の顔をした社会主義」を掲げるなど、「プラハの春」の立役者として民主化を急ぎました。プラハの街では西欧のファッションや音楽が流行し、自由化が定着するかに見えました。
これに危機感を募らせたのは、社会主義国を束ねるソ連でした。ソ連は8月20日、東側の軍事同盟であるワルシャワ条約機構軍の合同演習の名目でプラハ市内に戦車部隊を展開。共産党本部を占拠するとドゥプチェク氏ら要人を逮捕しました。ソ連軍の輸送機でモスクワに連行されたドゥプチェク氏は民主化路線の放棄を承諾させられ、春を迎えたはずのプラハの街は冬に逆戻りしました。