米国でのIPO直後に当局からの規制に遭ったDiDi社

 7月4日、日曜日の夜7時過ぎ、中国政府でサイバースペースを監視、管理する当局が、「中国版ウーバー」と呼ばれる配車アプリ大手・ディディ(DiDi:滴滴出行)にサイバーセキュリティー審査を実施、アプリの新規ダウンロードを禁止し、アプリストアからのアプリの削除要求をしたことを、声明文という形で発表しました。

 6月30日、同社がニューヨーク証券取引所に上場、中国企業の中では、2014年のアリババに次ぐ規模でのIPO(新規株式公開)直後だっただけに、週明けから株式市場にも波紋が広がっています。

 中国サイバースペース当局による公式な通告は以下の通り。

「国家データ安全リスクを事前に防止し、国家安全を守り、公共利益を保障するため、《中華人民共和国国家安全法》《中華人民共和国サイバーセキュリティー法》に基づき、我々は《サイバーセキュリティー審査方法》を参照しつつ、滴滴出行にサイバーセキュリティー審査を実施する。この仕事に協力してもらい、リスクの拡大を防ぐという観点から、審査期間中、同社は新規ユーザー登録を停止することを要求することをここに通告する」

 この直後、同局は新たな声明文を立て続けに発表し、告発と確認作業を経て、DiDi社のアプリには「個人情報を収集、使用する過程で深刻な法律・規定違反が存在した」とし、同社に対して、「法律の要求に基づき、国家の関連基準を参照し、既存の問題を真剣に改め、広大なユーザーの個人情報安全をしっかりと保障する」ように要求を下しています。

 DiDi社は中国版ツイッター(ウェイボー)を通じて、当局による審査を断じて受け入れ、それどころか「心からの感謝」を示し、真剣に問題解決に努めていくと発表しました。

 DiDi社の筆頭株主はソフトバンク・ビジョン・ファンドで、これまでの出資額は1兆円を超えるといいます。

 また、2019年には、トヨタ自動車が660億円を出資し、中国でのモビリティサービスを共同で行っていくことを発表しています。

 このように、日本の大手企業も直接的に関与している中国企業の動向であり、かつ、各種報道にも見られるように、アリババ社の例などに続き、またしても、スタートアップとして勢いづき、その後海外で上場した民間IT企業への締め付け策と解釈できる案件だけに、中国という強大経済、巨大マーケットの今後を占う上でも、非常に重要なケーススタディーとなるでしょう。

 本レポートでは以下、今回の「DiDi事件」が何を意味するのか、中国政府は一体何を考え、今後、経済やビジネス環境にどのような影響を及ぼしていくのかを考えていきます。

「DiDi事件」真相1:習近平新時代、個人情報、米国上場

 結論から言えば、今回の「DiDi事件」は、決して突発事件でも、個別案件でもなく、昨今における国内外の情勢に照らし合わせた、中国当局の現状認識、リスク意識から生じている、綿密な戦略に基づいた行動であり、措置だということになります。

 例として、DiDi社に通告が下った翌日、7月5日、トラック専門の配車サービスを手掛ける満幇集団(フル・トラック・アライアンス)、および人材マッチングサービスを手掛けるBOSS直聘(BOSS Zhipin)にも対DiDiと一字一句違わない、全く同じ文言で通告がなされています。当局が同3社に対して抱く懸念が同じであるという現状を物語っています。

 3社の共通点はいろいろありますが、私から見て重要なのは3つです。

 一つ目が、3社とも、習近平(シー・ジンピン)第1次政権時(2012~2017年)に設立し、そこから第2次政権時にかけて急速に成長した、民間のスタートアップだという点。

 二つ目が、3社とも、多くの顧客を抱え、IT企業としての技術を駆使し、膨大な量の個人情報やデータを入手している点。

 三つ目が、3社とも、2021年6月に米国に上場したという点。

銘柄 上場日 上場先 上場初日の時価総額
DiDi 6月30日 ニューヨーク証券取引所 685億ドル
満幇 6月22日 ニューヨーク証券取引所 234億ドル
BOSS 6月11日 ナスダック 149億ドル

 3社にしてみれば、念願の米国でのIPOから1カ月と経たないうちに、中国当局からの「制裁」に遭遇したということで、株価を含め、先行きを不安視していることでしょう。しかしながら、アリババ社が独禁法違反で3,000億円の罰金を食らったとき、同社傘下にあるアント・フィナンシャル社の上海、香港での同時IPOが延期になったとき、創設者のジャック・マー氏が対応した際と同様、3社の創設者、経営陣にとって選択肢はありません。

 DiDi社が表明したように、当局の意見や要求を受け入れ、それに基づいて、会社経営を見直していくしかないのです。これらの会社が引き続き、中国に拠点を置き、中国人を雇い、14億の中国人消費者を相手に、巨大マーケットを主要なよりどころとして、収益をあげていきたいのであれば、です。「当局の要求を受け入れない=当局を敵に回す」ですから。

 当局を敵に回して、中国市場でビジネスを展開していけることはあり得ません。中国企業、外国企業、上場企業、非上場企業を含めてです。

「DiDi事件」真相2:無産階級、対米不信、国家安全

「DiDi事件」を読み解く鍵が、まさに「無産階級」「対米不信」「国家安全」の3点に集約されています。

 本連載でも適宜扱ってきましたが、習近平政権、特に2017年2期目以降の特徴として、お上からの市場への締め付け、という現象が如実に見て取れます。共産党、中央政府として、政治、経済を問わず、社会の安定や秩序を乱すと解釈する企業、ビジネス行為には、断固としてメスを入れていくということです。

 中国共産党の政治や政策を見てきた立場から言えば、習近平政権を理解する上で非常に重要なポイントが、「無産階級」、すなわち農業従事者や工場労働者などを中心とした、社会の低中所得者層に寄り添う政策を展開することで、政権基盤の強化、支持率の向上につなげようというものです。

 言い換えれば、資本家や富裕層よりも、労働者や低所得者層に優しい、後者のほうがメリットを享受できる政権運営に終始しているということです。資本家の共産党入党を認めた江沢民(ジャン・ザーミン)、それを基本的に継承した胡錦涛(フー・ジンタオ)両元総書記の時代とは、だいぶ様相が異なっているということです。

 アリババやアント・フィナンシャルの時もそうでしたが、ユーザーが約5億人いるとされるDiDi社のサービスも、中国消費者の間では物議を醸してきており、多くの不満や不信が蓄積してきた経緯があります。

 代表的なものとしては、「個人情報の収集が過ぎる。何に使われているのか分からない」「アプリをダウンロードした後、全ての権限をDiDiに授けないと使用できない」「領収書の発行が正常に行われない」などがあります。

 当局はこのような人民の間で広がっていた不満や不信につけ込み、声明文にもあるように、「公共利益の保障」、言い換えれば、人民の権益を死守するという観点から、DiDi社に対して審査を発動したということです。実際に、私が見る限り、今回の制裁措置を、広範な中国人民が支持しています。

 北京在住の知人(女性、30代、国有企業勤務、年収800万円)が私に語った言葉は、多くの人民の心の声を反映しているように思われます。

「私たちの権益を不当に吸い取っているのが資本家たち。共産党が彼らの動きを監視し、圧力をかけなければ、人民はだまされ、大損してしまう」

 中産階級に属し、考え方も比較的リベラルなこの知人ですら「資本家」と「共産党」の関係をこのように整理し、自らの権益を守るために後者に希望を見いだしているのです。私の観察によれば、14億の総人口のうち13億以上、5億の同社ユーザーのうち4億8,000万人以上が、今回の当局による審査と規制を支持しています。

軍事的観点からも、中国企業の対米上場に警戒心を強める共産党

 最後に、「米国で上場」という点です。

 今回の通告、声明文の中で最も重要なのが、「国家安全を守る」という動機、「国家安全法」という法的根拠。当局は、サイバースペース、ハイテク企業、情報・データ管理といった分野で関係が悪化し、相互不信が増長している米中関係という観点から本件をにらんでいるのです。

 どういうことか。

 私自身が以前、北京で出くわした場面を紹介します。

 ある夏の夕方、軍関係の知人と一緒に、知人がダウンロードしたDiDiアプリを使ってタクシーに乗り、軍施設に向かったことがあります。軍施設は機密情報のため、住所検索しても運転手のスマホのナビ上には表示されず、知人は口頭で運転手に指示して目的地へと向かいました。

 我々が下車する頃、運転手は興味津々に、検索不能な住所とはどういう場所なのだと、窓から顔を突き出していました。彼が何を思ったのかはともかく、顧客データや乗降場所のデータはきっちり残ります。結果的に、DiDiのデータベース上には、同軍人の個人情報、向かった軍施設の位置などが残ります。それらは紛れもなく、共産党、政府、解放軍が、外国人はおろか、一般的に知られたくない機密情報です。

 そして、DiDiは米国に上場しました。筆頭株主はソフトバンクで、次がウーバー、いずれも外国企業です。私が知る限り、中国当局は、現段階で、DiDiと「米国」「外国人」との関係を“黒”だとする、つまり、DiDiが外国の政府や企業に中国の機密情報や中国人の個人情報を提供している、あるいはDiDiが蓄積してきたデータが外国に吸い取られているという証拠はつかみ切れていません。

 しかしながら、国家安全保障や米中間の経済競争に重大な影響を与えるのが必至である潜在的リスクが現実的に生じ得るという前提に立って、今から動いています。それが、国家安全の観点から発動した今回の「DiDi事件」をめぐる最大の真相だと私は分析しています。と同時に、同社が米国でIPOした直後というタイミングはあまり関係ないと見ています。

 それを証明する一つの状況証拠が、7月6日、中共中央弁公庁と国務院が連名で発表した、《法に基づいて証券違法活動を厳しく取り締まる意見》。海外市場に上場する中国企業への監視強化;国境を越えたデータの流れや安全性に関する規制強化;証券市場における違法行為の取り締まり;不正な証券発行や市場操作、インサイダー取引の処罰;国内証券法の域外適用などを規定しています。

 中国語で約4,500字、計30項目から成るガイドラインです。この手の《意見》は、構想、フィールド調査、政策立案、文書化などを含めて、党、政府におけるあらゆる部署間の調整が必要とされるもので、短くて1~2カ月、通常で3~4カ月、長ければ半年以上をかけて作成していくものです。

《意見》が、本レポートでケーススタディーとして扱った3社の米国でのIPOを受けて立案、作成された可能性はゼロです。ただ、米国がトランプ政権からバイデン政権に移行する過程でも、米国の対中制裁、不信が止まず、そんな米国に自国の、それも国家安全保障に関わる情報やデータを蓄積する企業が上場するという情報をつかみ、企業側と意思疎通を行っていく過程で、《意見》の作成に本腰を入れた可能性は十分にあると思っています。

 その意味で、7月4~5日に3社への通告が正式になされ、その翌日に《意見》が公表されたことは必然的だと言えるでしょう。

 今後、(1)中国国内に広範なユーザーを抱える民間企業、(2)中国国内に膨大なデータを蓄積するIT企業、(3)グローバルな資本市場、特に米国で資金調達をする上場企業は、引き続き、あるいはこれまで以上に、当局からの監視、監督、制裁を気にしながらビジネスを展開していかざるを得なくなるでしょう。

 最後に一言。

 この趨勢(すうせい)は、いまだ出口の見えない習近平新時代における常識であり、前提です。好き嫌い、良い悪いではなく、それが14億から成る、グローバルに影響力を拡大する中国という強大経済、巨大マーケットなのです。私たちも、そんな中国市場を前に、一つ一つのニュースに一喜一憂するのではなく、辛抱強く、長期的に捉え、付き合っていくべきだと思います。