※本記事は2018年取材し公開したものです。

証券レディーにいい格好をするために、株を買う

 株主優待名人・桐谷広人さんの職業は日本将棋連盟に所属するプロ棋士でした。高校卒業後、18歳で日本将棋連盟のプロ棋士養成組織である「新進棋士奨励会(奨励会)」の会員となり、1974年、25歳で4段に昇格してプロ棋士になりました。

「29歳のとき、日本将棋連盟の仲間の紹介で、各証券会社が加入する東京証券協和会という団体が主催する将棋部の師範になりました。東京・茅場町の東京証券会館6階に将棋部のほかに書道、生花、ダンス、お茶などなどさまざまな教室があって、趣味の活動をしていました。将棋部では将棋盤が百面ほど用意されていて、その規模は街の将棋道場をしのぐほどでしたね」

 昼休みや大引け後に、将棋好きな証券マンが集まって将棋を指し、月1回、桐谷さんの指導を受けていました。指導の後は将棋の話をさかなに一杯……となりそうなものですが、

「私は誘いを断り真っすぐ帰っていました。なぜって当時、株式投資はギャンブル、証券マンはギャンブラーと信じていたから。そんな人たちとお付き合いしたくないでしょう?」

 将棋部で指導を始めて5年が経過したころ、当時住んでいた阿佐谷(東京・杉並区)にあった証券会社の支店に、将棋が大好きな支店長が着任しました。桐谷さんは支店長の上司を教えていた縁で「お茶を飲みに来ませんか?」と電話がかかってきました。桐谷さんにとって支店は、若い女性がたくさん働いている華やかな場所でした。

「そこでいい格好をするために店の商品を買おうと思ったのです。証券会社だから商品は株ですよね。株のことはよくわかりませんでしたが、株価が安くて配当の高い銘柄を適当に選んで二十数万円で買いました。たまたま仕手株銘柄だったので、わずか1カ月の間に5万円の利益が出ました。それでうれしくなって定期預金の一部を解約して、いろいろな株を買いました。これで大いばりで支店へお茶を飲みに行けるようになりました」

バブル絶頂。株の天才と勘違い。そして…

 世の中はバブル全盛時代。桐谷さんのもうけは1億円に達していました。

有頂天になり自分は『株の天才』だと思いました。それでもっともうけようと信用取引を始めました。今から思えば、それがバブルのピーク(1989年の大納会に日経平均株価は史上最高値の3万8,915円をつけた)だったのです。

 1990年の大発会から値下がりが始まり、どうなるのかと心配して、株式投資もプロ並の先輩棋士の市場予想レポートを読みました。3月までに日経平均株価は反転すると自信たっぷりです。

 証券会社も5万円説、8万円説という景気のいいレポートを出していました。そこでこれまでの損失を取り戻すために信用取引に力を入れたら、逆にどんどん損失が膨らみ、ついに耐えきれなくなり9月28日、大損覚悟で清算しました。

 するとその週末、当時の橋本龍太郎大蔵大臣が株式市場へのテコ入れ策を発表し、翌週は2,676円高の過去最大の上昇幅を記録したのです。株の天才どころか、やることがすべて裏目に出ました」

 ショックを受けた桐谷さんは、株式投資を休むことにしました。このままでは本業にも差し障るからです。

将棋引退…生活費に困り、優待品で食いつなぐ

「でも株価が動くと、どうしても気になり、少し手を出しては休んだりを繰り返していました。その間、日本の銀行に公的資金が入ったり、ライブドアショックが起こったり、いろいろな出来事があったのですが、なんとか株式市場は立ち直りました。そこで2007年春、私は7段まで昇段していた棋士を引退し、株式投資で生活する決心をしました。3億円の資金を30億円にするという目標を立てました」

 ところが2007年、米国でサブプライムローン問題が表面化、日経平均株価も下がり続け、資金は1億3,000円まで減ってしまいました。そして2008年、リーマン・ショックが起こり、世界中の株式市場が一斉に暴落。

「3億円の資金は5,000万円まで減りました。もうどうしようもありません。株価が気になって寝られず、体調が悪くなり、でも引退したので仕事がない。損失額が大きいので、バイトをしても焼け石に水。

 田舎の実家へ帰ろうと思ったのですが、ここで帰ったらもう東京へ戻れません。そこで13万円の家賃と光熱費だけは歯を食いしばって払い、食費や生活費は株主優待品でまかなって0円で生活しようと決めました。それが優待生活の始まりです」

第2話:株主優待の桐谷さん、優待に出会う「信用取引の大損で激貧に。優待で食いつなぐ」

第3話:株主優待の桐谷さん、優待テクを研究「20万円で4銘柄!桐谷式、失敗しない優待選び」

第4話:株主優待の桐谷さん、リスク分散する「桐谷流、優待株の買い時・売り時」