良くも悪くも後世に大きな影響をもたらした!
日本史上に残る「三大増税」を検証

 10月1日、ついに消費税が10%に引き上げられました。前回、5%から8%に引き上げられたのはたった5年前。度重なる増税に「増税憎し!」と思いがちですが、日本の歴史を振り返ってみると、いつの時代も「増税」があり、そのたびに庶民は右往左往してきたのです。

 今回の増税は果たして悪か、正か? “大人が読むべき歴史と経済の教科書”と評判の『経済で読み解く日本史』シリーズの著者、上念司さんが、日本を変えた「三大増税」とその功罪を検証します!

上念 司さん[経済評論家]

1969年東京都生まれ。中央大学法学部法律学科卒業後、日本長期信用銀行などを経て、独立。2007年、経済評論家、勝間和代氏と株式会社「監査と分析」を設立。取締役・共同事業パートナーに就任。現在は代表取締役。2010年、米国イェール大学経済学部の浜田宏一教授に師事し、薫陶を受ける。金融、財政、外交、防衛問題などに関する著書多数。テレビ、ラジオなどでも活躍中。  

 

三大増税・その1
田沼意次が導入を目論んだ「日本惣戸税」
もし実現していたらもっと早く「明治維新」が訪れていた!

 

 税制の観点から日本史を振り返るときに避けて通れないのが、「日本惣戸税(にほんそうどぜい)」という税制です。これは教科書には載っていません。なぜならば、画期的な税制改革になるはずだったのに諸々の事情で頓挫した、幻の税制度だからです。

 実現しなかったとはいえ、この税制を知ることで、それまでの日本税史の欠点や特徴を知ることができます。どんな税制だったのか、なぜ実現しなかったのか、背景や当時の実情を解説していきます。

 まず「日本惣戸税」発案当時の税制を整理しましょう。

 江戸時代までの日本の税制は非常に不十分で、権力基盤を運営するだけの資金力を十分に集めることができていませんでした。

 安土桃山時代、豊臣秀吉が太閤検地を実施したのが、税制の大きな一歩です。農地の面積を調べ、どれだけ年貢を納めるかを取り決め、効率的に税を徴収する「石高制」が確立され、これが江戸時代へも引き継がれました。しかし江戸時代に行われた大規模な検地は、江戸幕府ができて間もない頃、家康が実施した「慶長検地」の一回だけでした。

 その後、幕府の号令で新田開発が大規模に行われ農地は著しく拡大。農業技術も著しい勢いで進歩したため、米の生産量は何倍にも増えました。にもかかわらず、何年経っても「慶長検地」を基準に年貢の徴収を行っていたため、実質的には減税状態が続きます。農民は取れ高に対して負担の少ない年貢を納めてしまえば、米以外の野菜や大豆を育てたり、家内工業で着物などを作って大都市で売ったりして副収入を得るなどし、非常に潤沢な生活を送っていました。時代劇などで見る、悪代官に過大な年貢を巻き上げられて困窮する農民、というのは誤ったイメージです。

 また、江戸幕府は中央集権国家と捉えている人も少なくないと思いますが、それも誤りです。徴税権という観点から見れば、家康の権力が及んでいたのは天領(幕府の直轄地)のみ。つまり、徳川幕府は全国3,000万石から年貢を徴収していたわけではなく、徳川家の領地(天領)400万石から年貢を得ていたに過ぎません。それで全国の公共事業や外交を担っていたわけですから、最初から無理があったわけです。

 ただし、江戸幕府が開かれた頃、日本には数多くの鉱山があり、莫大な埋蔵量がありました。家康はそれらすべてを手中に入れたので、当初、財政には相当な余裕がありました。ところが、その後3代将軍・家光まで、幕藩体制を安定させるため、徹底的なばらまき政策を取りました。そのため、鉱山は枯渇し、一転、財政難に陥ります。

 当然、突発的なことが起きればすぐに財政は破綻します。例えば1707年(宝永4年)には「宝永地震」と「富士山大噴火」が立て続けに発生しますが、被災者の救援や復旧に必要な復興資金を、幕府は用立てることができませんでした。そこで、全国の諸藩に対して「諸国高役金令(しょこくたかやくきんれい)」というお触れを出します。これは今でいう資産課税のようなもので、「100万石当たり2石の割合で復興費用を出しなさい」と命じました。こうした臨時増税を繰り返し、内情は自転車操業だったのが江戸中期です。

信長の経緯施策はけっこう中途半端? 江戸時代の農民は実はかなり裕福? 上念司さん著の『経済で読み解く日本史』シリーズ。経済視点で日本史を紐解くと、教科書で習わなかった真実が見えてくる! 大人だからこそ読みたい経済絵巻。絶賛重版中!

 豊かな農民からは直接税を徴収できず、金山銀山頼みの財源は底をつく。突発事項や災害があればすぐ財政難、という不安定な財政の中、ある人物が新たな課税システムの導入を計画します。「暴れん坊将軍」こと8代将軍・徳川吉宗が実施した「享保の改革」の数十年後、9代将軍・家重と10代将軍・家治のもとで老中を務めた田沼意次です。それまで災害などのたびに諸藩から税を取り立てていたわけですが、意次は諸藩から恒久的に税を徴収する仕組みを構築しようとします。つまりは全国課税を目論んだわけです。それが冒頭に述べた「日本惣戸税」です。

 しかし結論をいうと、この税は実現しませんでした。諸藩から大反発をくらったうえ、意次の後ろ盾だった家治が亡くなったこともあり、この画期的な税制変革は頓挫。そして意次は表舞台から姿を消します。しかし、もし実現していたら、その後、世の中は大きく変わったと私は考えています。なぜなら、全国から課税するというのは、中央集権体制への移行を意味するからです。

 意次が失脚後、幕府は再び財政難に陥り、どんどん活力を失っていきます。1700年代後半には松平定信が「寛政の改革」、1800年代半ばになると水野忠邦が「天保の改革」を実施しますが、いずれも大きな効果はなく、幕府は解体へと向かいます。そうして意次が全国課税を計画してからおよそ80年後に明治維新が訪れ、ようやく中央集権システムへの移行が図られます。もし意次が失脚していなかったら、もっと早く、別の形で中央集権体制が築かれ、近代化の夜明けを迎えていたでしょう。

三大増税・その2
日露戦争の勝利を支えた大増税
国民は我慢を強いられたが国際的地位は急上昇した

 

 

 日本史に残る2つ目の増税は、1904年(明治37年)2月に勃発した日露戦争をきっかけに制定されたさまざまな税制です。戦費を捻出するために、日本政府はさまざまな税制を制定しました。近代税制の祖ともなったこの時期の増税について、背景とその影響を解説します。

 明治維新後、中央集権体制が築かれると税制の整備が進みます。まず1873年(明治6年)に財政基盤を確立するため、「地租改正」が実施されます。前章で田沼意次が全国課税を計画しながら頓挫したといいましたが、ここで初めて全国課税が実施されることになるわけです。

「地租」とは今の固定資産税のことですが、当時、土地の売買は認められていなかったため、マーケットは存在せず、「政府が定める公定地価に対して何%払いなさい」というものでした。当初は地価の3%で、その後2.5%に引き下げられました。

 次いで1887年(明治20年)に「所得税」が導入されます。地租は毎年一定の税収しか期待できませんでしたが、これによって経済の発展によって税収が増える仕組みができあがります。さらに1896年(明治29年)に「営業税」と「登録税」、1899年(明治32年)には「所得税法」が改正され、法人税がスタート。現在の税制のベースが完成しました。

 地租改正を皮切りにさまざまな税が導入されたわけですが、それによって国庫が潤ったのかというと必ずしもそうではありません。西南戦争、日清戦争と大きな戦争が続き、戦費が膨らんだためです。そして1904年(明治37年)2月、日露戦争が勃発します。

 当時の日本はロシアと喧嘩して勝てるような国力を有していたわけではありません。事実、欧州ではロシアが圧勝すると思われていました。そんな状況でロシアと伍して戦うには軍艦にせよ武器にせよ最新鋭の装備が必要です。そのため、日清戦争時とは比較にならないくらいの戦費がかかりました。

 そこで政府は外国債を大量に発行して資金を確保します。一方、国内では徹底した緊縮財政政策を取り、2度にわたって臨時増税を実施。地租はもとより、所得税や営業税などほとんどの税金の税率を引き上げました。

 そして、戦費調達のため、新たに2つの税を導入します。1つは相続税で、これは恒久化されることになります。そしてもう1つが消費税です。といってもあらゆる製品に課税されたわけではなく、石油と穀物を対象とするものでした。こちらも永久税として残りますが、大東亜戦争直後の税制改革によって廃止されます。いずれにしても相続税と消費税は日露戦争がきっかけで誕生した税だったのです。

 しかし、ロシアとの戦争に勝つためには今は耐えるしかない、その代わり勝利した暁には明るい未来が待っている、と、けなげに耐えた国民は予想外の結末に見舞われます。ご承知のように日露戦争は、バルチック艦隊を打ち破った日本が勝利して幕を閉じますが、終戦後の日露講和条約(ポーツマス条約)で「賠償金なし、領土の割譲なし」という規約が取り交わされました。政府にはロシアの南下阻止を達成できたし、南満州の日本の権益を認めさせることができたので、一定の成果は得られたという認識がありましたが、「せめて賠償金くらいせしめないと割が合わない」という国民の不満は膨れ上がり、当時の日本では日露講和条約反対運動が巻き起こりました。

 ただし、日本が戦争に勝ちながら賠償金や領土の割譲を放棄したことは、世界的には高く評価されました。「なかなか紳士な国じゃないか」という評判が一気に広がりました。それは、開戦前と終戦後の外国債の発行金利の違いに表れています。日本が戦費を調達するため、外国債を発行したときの金利は7%程度でした。これは当時の先進国の金利より2~3%高い。日本は成長著しい国と見られていましたが、欧州の先進国に比べると信用度は低かったわけです。しかし、日露戦争後、先進国並みに引き下げられます。ロシアとの戦争に勝利し、なおかつ賠償金を放棄したことから、国際的な信用度が格段に上昇したわけです。そういう意味では当時の政府の選択は正しかったといえるかもしれません。

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