為替レートの名目と実質

名目と実質の話をしてきましたが、為替レートにも名目と実質があります。
6月10日の衆議院財務金融委員会で、円の実質実効為替レートについて質問された日銀の黒田総裁は、「実質実効為替レートでは、かなり円安の水準になっている」との見方を示し、「実質実効為替レートがここまで来ているということは、ここからさらに円安になるのは、普通に考えればありそうにない」と返答しました。この発言がマーケットに伝わると、124円台前半で動いていたドル円は急落し、122.50円まで円高となりました。黒田総裁は「実質」実効為替レートについての説明をしたのですが、マーケットは実際に取引されている(名目ベースの)為替レートについて円安を牽制した発言と受け止め、ドル円は急落し(円が急騰)、株価も下落してしまいました。マーケットの意識としては、これまで125円台を何回かトライしましたが、長期間滞空することはなかったため、125円はやはりキャップになっているとの意識が芽生えていたと思われます。水準的にもタイミング的にも、今回は125円を突破できるだろうかとの疑心暗鬼の局面であったため、牽制発言として、強くマーケットに働いた結果となりました。
その後、黒田総裁は釈明し、「実質実効為替レートから何かを読み取ることは非常に難しい。金融政策にはすぐには役に立たない」と述べています。マーケットが「実質」と「名目」を誤解したことから円高となった今回の騒動は、黒田総裁の釈明で取りあえず収まりました。しかし、現実に取引されているのは「名目」と言われている実際の為替レートであるため、125円の壁は更にマーケットに意識されることになったと思われます。

実質実効為替レート

それでは、「実質実効為替レート」とは何でしょうか。かなりややこしい定義なのでさらっと読むだけで結構です。こういう概念があるのだなとの認識をもつだけで十分です。何年かに一回、この実質実効為替レートの話が新聞などで話題となります。2011年に1ドル80円を16年振りに割れた時も話題になりました。直近では、2014年12月には、「円の『実力』40年で最低」と新聞の一面の見出しを飾っていました。そういう記事が出てくれば、ああ、あの話だな、実際の為替予想には大きく影響しないなあと思って読んで下さい。

通常使っている円相場とは、ドルと円の「ドル円」相場、ユーロと円の「ユーロ円」相場など2国間で取引されるレートを指します。しかし、円の実力を測るためには、円がドルに対して円高になっても、ユーロに対して円安になれば、円の本当の実力が分かりにくくなります。このように特定の2国間の為替レートをみているだけでは円の本当の実力を捉えることができません。そこで日本との貿易関係で対象となる全ての通貨と円との2国間の為替レートを、貿易額等で計った相対的な重要度でウエイト付けして集計・算出し、相対的な円の実力を測るための指標が作成されました。
「実質実効為替レート」は、日本を含む59か国・地域の物価変動や貿易量を考慮して計算された相対的な円の実力を測るための総合的な指標のことです。「実質」とは、物価変動の影響を除くことを示しています。「実効」とは、貿易額に占める相手先の比率を勘案することを意味しています。

国際決済銀行(BIS)が毎月作成し、日本銀行が公表しています。基準となる時点を100として指数化した数字で、1ドル=~円という為替レートではありません。単なる数字ですので誤解しないようにして下さい。この単なる数字で表されている指数が大きいほど円高となります。100→150になれば、円が高くなったと言います。指数が小さいほど円安となります。100→50になれば、円が安くなったと言います。この見方も普通の為替レートとの見方とは逆になっていますので注意して下さい。
文章だけではわかりにくいかもしれません。下図が「実質実効為替レート」(青色のグラフ)「名目為替レート(普通の為替レート)」(赤色のグラフ)のチャートとなります。1980年から表示されています。これらチャートは日銀のホームページから見ることが出来ます。

「実質実効為替レート」(青色のグラフ)は、2010年を基準年(100)とした指数のグラフです。縦軸は右側を使用しますので、下に行くほど数字が小さくなります(円安方向)。上に行くほど数字が大きくなります(円高方向)。
「名目為替レート(普通の為替レート)」(赤色のグラフ)は、東京市場のドル・円 スポット 17時時点/月中平均のグラフとなります。縦軸は左側を使用します。目盛の数字は右側と同じ向きですが、円安、円高が逆になっているため注意して下さい。下に行くほど数字が小さくなりますが円高方向です。上に行くほど数字が大きくなりますが円安方向です。

6月10日の黒田総裁の発言は、青色のグラフの「実質実効為替レート」の指数が、かなり低下している(円安)ことを説明した内容でした。指数は5月時点では、69.71と1973年以来の低い水準となっています。黒田総裁は、これほどの低水準(円安水準)であるため、下げ余地(円安方向)はあまりないということを伝えかったようです。また、デフレによって指数が円安方向に行ったのであれば、今後は脱デフレの方向に向かうのならば、実質相場は上がる(円高方向)かもしれないと、理論的なことを説明したかったようです。国会の答弁の時間だけでは説明が難しく、なかなか伝わりにくい内容です。マーケット参加者も、実際に取引されている名目為替レートについて黒田総裁は円安を望んでいないと解釈し、反応するのも無理がないかもしれません。

実質と名目には、「実質」が本当のことであり、「名目」が見せかけという響きがあります。これは、インフレ時代のGDPを計測する時に、物価上昇分を差し引かないと実際の経済の実力が分からないという観点から、物価の上昇を差し引いた「実質」という考え方が出てきたようです。しかし、為替の世界ではどうでしょうか。実際の為替取引では、現時点で提示されている為替レートで取引されているのが実情です。企業が取引する為替レートも、社内レートなどの予算を立てる時も、現在使われている為替レートを使います。物価を考慮して取引を実行したり、計画を立てたりはしません。個人の場合も同様です。外貨預金を設定したり、海外旅行でモノを買う場合に物価を考慮して為替レートを考えるということはありません。
このように為替の世界では。実質レートというのは、実情にそぐわない世界の話になります。30年間、為替の世界に携わりましたが、実質レートではこの水準だから現在のレートは高すぎる、あるいは安すぎると考えて取引をしたことはありません。また、他のディーラーや投資家とそのような話をしたことはあっても、直近の相場予想に使ったことはありません。黒田総裁も「実質実効為替レートから何かを読み取ることは非常に難しい」と後日、釈明しています。実質実効為替レートの位置づけは、この程度のことかもしれません。