「運用期間」、30年、3年、3日、のちがいは?

世の中では、「長期投資」は大変良いものだということになっている。筆者もその意見に賛成する。では、「短期投資」はだめなのだろうか?

その問題を考えるためには、「長期」と「短期」を具体的に想定する必要があろう。例えば、期間が30年あれば長期投資で、3年であれば短期投資だと決めたら、結論はどうなるか。

筆者は、3年を、投資するに十分値する期間のように思う。また、これから3年の前提で投資する場合も、30年の前提で投資する場合も、運用内容(つまりポートフォリオ)はほぼ同じになるのではないか、と想像する。

「短期」が3年ではなく、3日なら、さすがに運用内容が変わるだろう。

それは、例えば、売買のコストが3日間で投資元本の0.1%掛かるとすると、このコストは、年率に換算すると10%以上のマイナス効果を持つからだ。リスク資産に投資する際に期待される「リスク・プレミアム」を食い尽くすほどのコストが掛かるのでは、リスク資産に投資することは合理的ではない。

他方、3年の投資期間があれば、往復で0.1%のコストは、年当たり約0.033%に縮小する。影響が完全にゼロだとは言わないが、個人投資家レベルならほぼ無視できる程度のコストだ。

30年間、全くのバイ・アンド・ホールド(持ち切り)運用なら、計算上の売買コストは約年率0.0033%に縮小するだろうが、売買コスト以上に影響が大きい問題として、30年間の途中には、ポートフォリオを変更したくなるような前提条件の変化が起こる可能性がある。

例えば、現状では、国内債券は低利回りで魅力が乏しい。長期債を株式と組み合わせるのも気が進まないし、金利上昇の可能性に備える意味でも、個人向け国債(「変動10」のタイプ)でも買っておくのが良かろう、と筆者は思う。

しかし、例えば、長期金利が2%を超えるような状況が訪れた場合には、長期の債券と株式を組み合わせる運用が魅力を増す可能性があり、この場合に、ポートフォリオを一部変えることは十分ありうることだ。

30年間、「そのようなことは起こり得ない」と決めつけてその間ずっと長期債を持たないのも、また「途中で必ず利回り上昇が起こる」と決めつけて、「30年間の予想平均利回り」を期待リターンと決めて今から長期債を持つのも、「どちらもおかしい!」ことは、容易に理解できる。

普通の行動は、「3年」がいいのかどうかは分からないが、30年経たなくても、運用期間途中までの状況を見て、都度都度、必要があればポートフォリオを調節することだろう。

つまり、運用期間が長いからといって、当面のポートフォリオを運用期間にあわせて固定する必要は無い。個人投資家の運用資産額でいうと、1年から、どんなに長くとも5年程度の期間を想定してポートフォリオを作り、その後の前提条件に変化があれば、ポートフォリオを調整する、という考えでいいはずだ。

こうして考えると、ある程度の期間(たとえば「3年」)を超える期間の運用を行う場合、「当面のポートフォリオ」は運用期間が変化してもほとんど同じになることが予想できる。

当面のポートフォリオを作るために想定する期間、即ち、運用計画の想定期間を決める要因は、(1)取引コストと、(2)状況・情報の変化スピードの想定だ。

取引コストの影響については、次のようなケースを思考実験してみるといい。仮に、幾ら売買額が大きくても、マーケット・インパクトを含めた取引コストが完全にゼロなら、アセット・アロケーションを含めて、ポートフォリオは毎日変更しても構わないはずだ。そうしないのは、なぜなのだろうか?

ちなみに、個人の資産運用の場合、大きな資金と、小さな資金の差は、「案外小さい」。数百万円と数億円では、たいした違いはない。

長期の運用だからといって、特別な方法がある訳ではないことがお分かり頂けるだろう。

運用期間が「長期化」する効果

では、運用期間を長期化することにメリットが全く無いのかというと、そのような事でもない。投資は、資本を提供する行為だから、株式の場合なら、株式会社が利益を生むためには、十分な時間を与える必要がある。

但し、時間が経つほど、将来の不確実性は大きくなる。「長期投資で、リスクが縮む」というのは、完全な誤りだ。

投資期間が長期化すると、リスクも大きくなるが、期待できるリターンも大きくなるので、投資期間の長短は、リスクとリターンの有利不利に対して概ね中立だと理解するのが、金融論的には正しい答えだ。

一定以上の期間(例えば「3年」)の場合に投資のリスクを取ることが魅力的なのだとすると、運用期間がそれ以上の長期(たとえば、「20年」とか「30年」とか)になっても、魅力(リスクに対するリターンの評価)は概ね同じだ。

「長期投資だ」ということに、特別の魔法(意思決定的な有利さ)があるわけでは無い。

運用計画の想定期間は、誰でも同じでいい

運用期間にある程度以上の長さがあれば、当面のポートフォリオを作るために想定する期間は概ねみな同じで構わないということになる。

小回りが利く個人のポートフォリオの場合、想定期間1〜3年で運用計画を作っていいだろうし、公的年金を運用するGPIF(資産は約130兆円)であっても、5年の期間があればポートフォリオをかなりの程度動かすことが出来る。状況の変化を考えると、運用計画に想定すべき「期間」は、長くても5年だろう。

これを超える遠い将来について想像をたくましくして、今の時点で、想像上の遠い将来に合わせたポートフォリオを作ることは合理的ではない。

仮に、運用期間が「1年」あれば、売買コストが十分吸収できると判断するとしよう。この場合、当面のポートフォリオは向こう1年の状況を想定して考えるといい。将来のポートフォリオは、将来の前提条件の変化を反映させて、将来作ればいい。既存のポートフォリオを調節する場合でも同じだ。

GPIFのような巨大投資家は5年程度の期間を想定して当面のポートフォリオを作る必要があるかも知れないが、数百万円から数億円くらいのお金を運用する個人投資家の場合、金額に大小の差はあっても、1年単位くらいで運用計画を立てて問題は無いだろう。

誰にとっても、運用計画を考える場合の想定運用期間は同じでいいということは、運用方法そのものをシンプルに一般化できる可能性を現実化するように思える(筆者は、大いにやる気になっている)。

運用計画での「負債」の扱い方

例えば、運用計画に適切な期間が当面の1年だとしても、将来、たとえば、20年後、30年後に、一定の金額が必要な資金を運用するのだとした場合、どう考えたらいいのだろうか。

完全積立方式の企業年金の積立金運用のような場合に、こうした問題が発生する。長期的に、支払いの義務が見えている生命保険会社の資産運用なども、これに近い要求をもっている。

この場合に必要なことは、資産運用計画を、ぼんやりと20年、30年といった期間で考える事ではない。

「○○年後に、幾ら」という「負債の現在価値」を、資産から差し引いた純資産の価値を、1年間の想定期間にあって最適化すればいい、というのがその答えだ。資産も負債も時価評価して最適解を求めたらいいのだ。

「このお金の運用に対しては、○○年後に、○○○○万円必ずいる」という目標があれば、その目標をマイナスのウェイトを持つ資産として、いわば長期債を「買う」のではなく、「発行する」ような形で、アセット・アロケーションの計算に加えたらいい。

年金基金や生命保険会社の資産・負債の構造はこのようなものになっており、近年の長期金利低下で、負債側の時価評価額が膨らんで、積立不足が問題になっている。

但し、個人の場合、「将来に向けて、必要な貯蓄額を貯蓄しつつ、持っている金融資産では、許容出来るリスクの範囲内でリスクを取って、なるべく効率良く運用して、保有資産を増やす」という方針及び「運用目標」で構わないだろう。

前回書いた、「人生設計の基本公式」を考えると分かることだが、運用が上手く行った場合は、老後の生活を豊かにしてもいいし、当面の必要貯蓄率を下げて、現役時代に使ってもいい。

「インフレに負けない」という事は出来れば達成したい事だが、これだけに拘るほどの意味は無い。インフレ率以上に儲かったとして、何ら困ることもないし、一時的なインフレ率の高騰に運用利回りがどうしても追い着かない場合も起こり得る。しかし、後者の可能性があるからといって、今から商品相場でポジションを持ったり、利息も配当もない貴金属に資産を変えたり、実質的に、マイナス利回りの物価連動国債に資産全額を投じたりする必要は無い。

「その時々に、許容可能なリスクの範囲で、なるべく儲けられるようにポートフォリオを組む」ということでいいだろう。

宗教としての「長期投資」は卒業しよう

あらかじめお断りしておくが、筆者は、「短期売買」ないし「短期投資」を推奨する者では、一切無い。

しかし、同時に、「長期投資なら、着実に儲かる」とか「長期投資はリスクを縮小するとか」、「資本主義の長期的発展に賭けようとか」、あるいは、単に「長期投資は素晴らし」と叫ぶような、「長期投資」に特別の効果や役割を期待するような、いわば「宗教としての長期投資」は、卒業する方がいいのではないか、と考えている。

運用会社などからの、投資家に対する広報・啓蒙活動(両者を一緒にやることに、そもそも問題があるが)を見ると、「長期投資教」とでも呼びたくなるような、長期投資に対する過剰期待が煽られているように思う。

これらは、投資啓蒙の初期にあって一定の役割を果たしたかも知れないが、投資の世界を知った人は、そろそろその先の「リアルな投資の姿」に目覚めてもいいのではないかと思う。長期投資への単純な期待は「卒業」してもいいのではないだろうか。

短期の判断の積み重ねが「長期投資」

冒頭にあげた3年と30年の例で、再び考えてみよう。

例えば、向こう3年を想定してポートフォリオを組んで、3年経った時点で、次の3年を想定してポートフォリオを調節すると想像してみよう。

多少のバランスの調整は必要かも知れない。しかし、これに加えて、例えば、株式の組み入れ率を大きく動かすべきだと考えるような状況の変化・情報・判断といったものを、新たにその時点で持っているかどうかが問題だが、重大な与件の変化は無い場合が多いのではないかと予想される。

「市場の効率性」を盲信するのはいかがかとも思うが、例えば、市場が概ね効率的であると考えるなら、3年前の株価も、今の株価も、その時の情報と適正なリスクプレミアムを織り込んで形成されているのだろうと考えると、投資家の側でリスクに対する態度が変わったのでない限り、ポートフォリオに大きな調整は必要無い。

端的に言うなら、短期の判断の積み重ねの結果、長期的にポートフォリオがゆっくりと動いた結果、あたかも最初から長期を想定してポートフォリオを作ったかのような、典型的に「長期投資」という言葉でイメージされるような運用が出来上がる、というのが現実なのだ。

短期投資の積み重ねの結果が長期投資だった。考えてみると、普通の話だ。長期投資は特別ではない。