金融学会での報告とパネル

筆者は、先週の土曜日(5月14日)に武蔵大学で行われた日本金融学会に出席して、「正しい金融論教育のために大学で必要なこと」というタイトルで短い報告を行い、「大学における金融教育と金融“論”教育」と題されたパネルディスカッションに参加して来た。昨年度で、6年間務めた獨協大学の特任教授を辞め(契約期間満了で)、今は大学の先生ではないので、自分が登壇していいのか少々戸惑ったが、興味のあるテーマであり、同時にこのテーマを問うにふさわしい聴衆が集まるので、引き受けることにした。

学会のプログラムは、以下のURLにある。
http://www.jsmeweb.org/ja/annual/prog16s.html

金融学会の場でどのようなテーマが俎上に乗っているかを見て頂くことができるし、筆者のものも含めて、報告者の報告要旨をリンクで辿ることができるので、興味のあるテーマについて、ご覧頂きたい。

尚、武蔵大学は、日本の私立大学ではじめて金融学科を設立した学校であり、金融論の研究と教育に特に力を入れている。

以下、話をした時のことを思い出して、報告の内容を再現してみよう。録音をテープ起こししたわけではないので、ぴったり同じではないが、次のような話をした。

【山崎・報告】 「正しい金融論教育のために大学で必要なこと」

問題は2つある

おはようございます。山崎元です。はじめに申し上げておきますが、私は現在、大学の教員ではなく、証券会社の社員であると同時に、経済評論家の仕事をしています。今回のテーマである、金融教育に関係することですが、「証券マンに限らず金融マンの言うことを、そのまま信じてはならない」ということは、全ての投資家と消費者にとって、最重要な知識の一つです。私の言うことには、間違いが含まれているかも知れませんので、是非、油断無くお聞きになって下さい。

さて、学問は必ずしも実用のためにあるわけではありませんが、実用の面で学問に期待が掛かるのは当然のことで悪いことではありません。特に、金融論とその普及に関しては、たとえば金融資産の運用面に限っても、その対象は、公的年金の運用のような金額が大きなものもあれば、確定拠出年金の拡充やNISAの導入といった制度の変化も追い風としてパーソナル・ファイナンスに至る対象人数の多いものがあり、大いに必要とされているところです。

しかし、現状では、金融論およびその教育は、期待に十分答えているとは言い難いように思います。その背景には、問題が二つあると考えています。第一に金融論研究の問題、第二に金融論教育のあり方の問題です。

金融論研究自体の問題

第一の問題は、金融学会の出席者の前で申し上げるのは申し訳ないのですが、金融論の研究自体が十分に問題を解決していないということです。

たとえば、近年、公的年金の運用がしばしば話題になります。公的年金の運用計画を見ますと、いわゆる基本ポートフォリオが2014年10月に大きく変わっています。リスク資産への投資比率は、ざっくり言って、三分の一だったものが、いきなり三分の二になりました。この間、運用目標の方には何も変化はありません。もちろん、基本ポートフォリオの検討には、大学で金融論を教える学者も加わっています。

この状況を見ると、そもそも、年金の運用に関して、運用計画はこのように決めるべきだという定見が、金融論の研究レベルで十分出来上がっていないのではないか、という印象を持ちます。

もう少し細かく、GPIFのホームページの資料で公的年金の運用計画の策定プロセスを見ると、たとえば、基本ポートフォリオを決める際のタイムホライズンを「25年」と設定しています。その理由は、約25年後に年金の負債側のキャッシュフローが大きく変わるからとされていますが、はっきり言って、滅茶苦茶です。

運用計画の設定期間を決めるものは、「ポートフォリオがどれ位のスピードで変化しうるか」であり、それを決めるのは、売買のコストと情報の変化です。公的年金の積立金が、いかに巨額であって、急には動かせないとしても、5年もあれば、大きく変化させることが出来ます。その間に運用環境も変化します。運用計画のタイムホライズンは、公的年金の積立金が巨額だとしても、せいぜい長くて「5年」でしょう。「25年」は現実に全く合っていません。

また、近年関心が高まっていて、教育の面でも各方面で注目されているパーソナル・ファイナンスですが、「個人の資産運用は、このような考え方の下に、かく行うべきだ」という理論的な答えがしっかり完成されているようには、見えません。 

これは、投資教育をどう行うかという問題以前に、そもそも「何を教えるのが正しいか」が確立されていないことを意味するので、重大です。

たとえば、FP(ファイナンシャル・プランナー)が書いたり、セミナーで話したりしているような内容でも、「運用期間が長くなると、リスクが縮小する」といった金融論的には間違いが教えられていたり、個人が投資していい商品としてアクティブ・ファンドが上げられていたりする場合があります。

どのくらいのリスクを取る事が適切かを決める主要な変数は、運用期間の長さではなくて、運用主体の財務的な強さです。

アクティブ・ファンドに関しては、①アクティブ・ファンドの平均がインデックスに負けているという事実と、②よいアクティブ・ファンドを事前に特定することは出来ないという、こちらも運用業界にとっては不都合な事実があり、これらを論理的に組み合わせた答えは、「アクティブ・ファンドを買うことは、経済合理的ではない」ということです。

もう一つ付け加えますと、高齢になると、利息、配当や分配金などインカム・ゲインを中心にした運用に切り替えることが適切だ、といった話も正しくありません。飽くまでも、インカム・ゲインとキャピタル・ゲインは合計して損得を考えるのが正しい考え方です。正しいことをきちんと教えていないので、高齢者を中心に、多くの投資家が、毎月分配型の投資信託のような、金融論的に100%愚かで、しかも手数料の高い商品に引っかかってしまいます。

こうした個別のトピックの誤解や間違いが訂正されないことに加えて、個人の資産運用方法全般の理論化と手順の確立は、研究レベルで十分できているとは言えないように思えます。

そもそも、個人の資産運用は、問題それ自体としてそれほど簡単ではありません。大きな年金基金の運用であれば、負債側のお金の流れはある程度予想が付きますが、個人の場合、病気も失業もあれば、家族の問題も起こるので、負債側の要因が複雑です。そして、年金基金でも個人でも、「株式の期待リターンはいくらか?」といった重要だけれども難しい問題については、両者共通に存在します。

年金基金の運用方法が研究レベルで確立できていないとすれば、本当のところ、個人の資産運用方法についても確立できていないのが当然だと考えざるを得ません。

たとえば、FPの教科書は大幅な書き換えが必要だと考えますが、その基礎となる内容が金融論的に確立していないということになります。

なぜこのような事態になっているのかという理由ですが、一つ指摘しておきたいのは、「投資する人の利益の最適化」が徹底的に考え抜かれていない、ということです。これは、次のテーマにも関連します。

金融教育の問題

「貯蓄から投資へ」というキャッチフレーズの下、投資教育の重要性が強調される昨今ですが、投資教育の提供のされ方は、適切なものになっていないように思います。

ちなみに、「貯蓄から投資へ」というフレーズを、金融業界の本音で翻訳すると「リスクを取って、もっと手数料を払ってくれ」という意味になります。一般に、リスクの大きな商品の方が、手数料が高いのです。

さて、投資教育の提供のされ方に問題がある、というのは、多くの場合、銀行、証券会社、生命保険会社などの金融ビジネス側がスポンサーになって投資教育が行われることで、その内容が歪むからです。

社会人向けに行われる、たとえば確定拠出年金の導入教育では、手数料が安くシンプルな適切な商品ではなく、手数料が高く、確定拠出年金としては不適切な内容のバランス・ファンドなどの商品に加入者を誘導するような教育が行われています。

また、金融商品の取引には深刻な情報の非対称性があるので、例えば、個人は「銀行員を信じてはいけない」、「自分の財産内容を明かして、金融マンに相談などしてはいけない」というのが、重要なポイントなのですが、銀行や証券会社などがスポンサーになる投資教育で、このようなことが教えられるはずがありません。

学童向けの金融教育でも、ある大手証券会社が作った小学生向けのお金の教材では、株式を巡るお金の流れと株式投資の意義を説明した後に、いきなり「自分が応援したいと思う会社の株式を買ってみましょう」と話が飛びます。割引率の考え方についても、リスクについても教えずに、株式を買えというのは全く無茶な話です。これでは、教育というよりも、将来の顧客作りであり「カモの養殖」とでも呼びたくなるひどさです。

思うに、金融研究も、金融ビジネスの影響を受けているのではないでしょうか。金融ビジネスが儲ける上で好都合なインチキ商品を作る上で役に立つ金融工学の研究などは進む一方で、投資家の利益の立場から見たパーソナル・ファイナンスの研究が遅れているといった現状には、金融論研究が、金融ビジネスへの応用を意識していることが多分に影響しているのではないでしょうか。

いささか言いにくいことですが、大学や大学院にも、金融ビジネス側からの寄付講座があったり、金融論の研究者が金融機関から研究費や顧問料を貰ったりすることがあります。また、金融論の研究に当たって必要なデータの入手を金融機関に頼ることもあります。

研究費の調達は悩ましい問題でしょうが、金融ビジネスの利害が研究に影響する可能性を直視して、研究者の側は、もっとしっかりする必要があるように思います。

金融教育をどうしたらいいのか、という問題は考える価値のある問題ですが、金融教育と金融ビジネスとの間の適切な距離・関係を確立することが重要ではないかと思います。

思うに、金融教育として重要なポイントになる内容は、例えば、中学校・高等学校の数学の教育内容などに埋め込んでおいて、これが入学試験などで出るようになると、国民の金融リテラシーは大いに改善するようになるのではないでしょうか。例えば、毎月分配型の投資信託は、どのくらい不利なのかといった金額を数学の例題として学生に計算させると、将来、学生が大人になった時に、そのような商品を勧める金融マンを信じることはなくなるでしょうし、そうなれば、金融ビジネスの側も、もっとマシな商品やサービスを提供するようになるのではないでしょうか。

金融教育は、金融ビジネスの影響を受けないルートで提供したい。

報告の結論としては、大学に於ける金融論の研究にあっても、あるいは国民的な金融教育の提供にあっても、金融ビジネスとの距離および関係を適切に設定する必要がある、ということを申し上げたいと思います。

最後に一つ、報告者の個人的な夢を申し上げて報告を終えます。私の個人的な夢とは、スポンサーとしての金融ビジネスの影響を受けない媒体、具体的にはNHKのEテレで、「金融ビジネス・フリー」な正しい投資教育を広く提供することです。「銀行員を信じてはいけない」とか、「運用商品は、先ず手数料で評価せよ」とか、個人にとって正しくはあっても、金融機関の息がかかった投資教育では決して伝えられないことを、毎年、シリーズで伝えるような番組を持つことができれば素晴らしい。個人的には、そのような事を時々夢想します。

本日は、私の拙い話をご静聴頂き、まことにありがとうございました。

補足

上記の内容には、意識的なものと無意識的なものが混在しているが、後から、付け加わった内容が含まれている。正確な記録であることを主張するものというよりは、「こう言いたかったのだ」という内容を文章にしたものだとご理解されたい。

報告後の討論では、金融ビジネスとの距離の取り方が大事な問題であることは大方の賛同を得たように思うが、金融機関からの研究費が欲しい昨今の大学側の事情に関しても、研究者の本音と思える意見を聞くことができた。

尚、論旨には関係ないが、大手証券が提供する投資教育に対する「カモの養殖」という比喩が妙に「受けた」ことをご報告しておく。

個人的には、「金融ビジネス・フリー」に近づくことができるかも知れない金融教育のチャネルとして、同じパネルで「金融版“学問のすすめ”」と題して報告を行った吉國眞一氏が会長を務めておられる金融広報中央委員会に興味を覚えた。

自分の話を書き起こしてみて、金融ビジネスとの関係が、金融論の研究にも、金融論の教育にも、深く影響していることに対して意識的でなければならない、と改めて思った。もちろん、自分の日頃の研究と情報発信についても、同様のことが言える。