※この記事は2018年6月1日に掲載されたものです。
投資小説:もう投資なんてしない⇒
第4章 合理的だという自意識過剰。「行動ファイナンス」で損失は減らせるか
<第1話>独りよがりな投資。相場は自分を中心に回らない
金曜日の夕方、隆一はいつものように営業日報を書いていた。
いつものように先輩の高田が寄ってくる。
「木村ちゃん、今日は飲みに行けるよね?」
「すいません、ちょっと今週も先約がありまして」
「何だよ、お前、最近付き合い悪くないか。俺と飲みにいきたくないのか?」
高田は不機嫌そうだ。
隆一は、毎週のこのやりとりにも疲れ、思い切って言い訳をした。
「先輩、実は毎週金曜に会計の専門学校に通いはじめたんです。なので、しばらく金曜の夜は難しくって。すみません」
「おっと、やる気出したのか。そりゃ、結構。さすがに無理強いもできんな」
「ありがとうございます。秋ぐらいにはそのコースも終わりますので、そうしたら毎週お付き合いします」
隆一は先生の元への道を急ぎながらも、先週のバブルの話を思い出していた。人気の少ない日比谷神社の横の階段を一段ずつ降りていき、ドアをノックすると、先生がいつものように笑顔で迎えてくれた。
「今日で4回目ですね。ちょうど折り返し地点です」
「もう折り返し地点ですか。正直、ようやくおもしろくなってきたと思っているんです」
「それはなにより。さて、今日は少し私の昔の経験を話しましょう」
先生はソファに座り直すと、天井を見るようにして目を閉じた。
隆一は、そう言えば先生のことをあまり知らないな、と思いながら背筋を伸ばした。
「ここで円高が止まる」―思い込みで億の損失
「1980年代、私はとある銀行のニューヨーク支店で為替のトレーダーをしていました。当時のドルと円のレートは、1ドル=250円ぐらいです。会社の資金で5億円、10億円単位でトレードを繰り返していました」
「10億!しかも、会社の金って」
隆一の背筋はさらに伸びた。
「はは、よくも悪くも会社の金なのですが、その資金でかなり稼いでいました。私もまだ若かったんですね。社内を肩で風を切って歩いていたものです。そして、忘れもしない1985年9月22日、プラザ合意が発表されると一気にドル/円が250円から200円近辺まで円高に進んだのです。私はある程度の円高は予想をしていましたが、200円は切らないと思っていたので、200円近辺で円を売って、ドルを買う注文を毎日のように5本、10本と出しました」
「5本ってどういう意味ですか?」
「為替取引の単位で、1本は100万ドル。1ドル=200円なら、1本は2億なので、5本だと10億です」
隆一のまゆはつりあがる。そして、先生は続けた。
「私は、この円高は一時的な円高ですぐに円安に戻ると思っていました。今から思うとまったく根拠薄弱なのですが。マーケットはそこから私の期待を嘲笑うかのようにさらに円高に振れました。見る間に190円、180円台と下がっていき、損失がどんどん膨らみました」
隆一は、ぽそりと「会社の金だけど…」とつぶやく。
「ええ。上司からはもうここで損切りをしろ!と指示がきました。でも、私も当時は30代前半で血気盛んなころ、頑なに必ず円安方向に戻るのでもう少し待ってくださいと抵抗し、ポジションを解消しませんでした」
先生は、天井から床に視線を落とした。
隆一は恐る恐る「先生、それでその後どうなったんですか?」と尋ねた。
「その1週間、私はほとんど眠ることができず、為替レートを表示するポケット端末を目を充血させながら朝まで凝視していました。そしてある日、眠れないまま会社に向かい席につくと、私のポジションは全て解消されていました。私は誰がこんなことをしたんだと思い、周りを見渡したところで上司が近づいてきて、『お前のポジションは俺が全部解消した。億の損だ。授業料と思え。とにかく今日は帰って寝ろ』と言われました」
「いくら上司でも勝手にすることないんじゃないですか。先生が任されていたわけでしょう」と隆一は先生の擁護にまわった。
「ええ、私もカッとなりました。言われたとおり会社を出て、家に帰ったのですが、すぐに寝付けず、フォアローゼズのバーボンをストレートで飲んだら、そのままソファで12時間以上寝ていました。夜中に目が覚めると、ふと「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という誰でも知っている平家物語の1節が頭に浮かんだのです。我ながらずいぶんとセンチメンタルだと思いますが、その詩を思い出すような自分に対して、ひとつ振り返ることができました。それは、『独りよがりだな』ということです。自分の考えやポジションによくよく執着していたんですね。ドル/円は200円を切ることはない、必ずまた戻る、数億円も損を出すと社内で笑いものになる、出世もなくなる、などなどです。これらの勝手なシナリオや欲や不安が自分の中を占め、それによってまったく冷静な判断ができなくなっていたわけです。上司が何も言わずポジションを解消したのは、そんな私のことをよくわかっていたんでしょうね。ここからは結果論ですが、その後も円高の流れは続き、あのままのポジションを抱えていたら、損失はさらに膨らんでいました」
「先生でもそんな失敗をするのですね」
隆一は、かつて株のデイトレードで仕事が手につかないほどに追い込まれた自分と先生を重ねていた。
「この失敗で私は多くのことを学びましたが、この体験を私に深く刻んだ出来事がもうひとつあります。他の銀行で同じく為替のトレーダーをしていた友人の死です。彼も私と似たようなポジションを取っていました。私は上司のおかげで損切りができましたが、彼はさらに円高が進むなかでもポジションを持ち続け、最後、自ら命を絶ってしまったのです」
「あ、う…」ともらしながら、隆一はふと自然現象の中でなすすべもない人間を思った。
相場とも戦い、自分とも戦うための、行動経済学
「ここで、私は投資というものは、理論だけでは勝てないことを理解し、理論以外の勉強をし始めました」
先生は席を立ち、本棚から何冊か本を持ってきた。
「『孫子』に『彼を知り己を知れば百戦殆からず』という格言があるのは知っていますか。先週、バブルの話から相場変動の特徴をお話ししました。それは『彼を知る』、相場という相手を知るためです。今日は、私のような失敗をしないために『己を知る』ための話です」
「己を知る、ですか?」
「ええ。自分が向き合う相場、彼のことを自分のことも知らなければ、投資の成功は望めないけど、それ以上に自分のことを知っておかないと、満足な投資はできません。相手を知るだけでなく、己のことも知っておけば、百戦して負けなし、というわけです。」
「でも先生、自分のことを、いまさら、勉強するんですか?」
「そうです。私達は自分が思っている以上に、自分のことを知りませんし、客観視できていないものです。投資では基本的な知識を身に付けたうえで、自分が、さまざまな局面で冷静かつ合理的に行動できるように訓練をしていくことが肝要です。ところが、この合理的な行動こそ『言うは易し、行うは難し』。多くの人は『冷静かつ合理的に行動』ができません。お金がからむとなおさらです」
「できそうで、できないですね。確かに自分もデイトレードをやっていたときは、自分をコントロールできませんでしたし、さっきの先生の失敗談を聞くと、やはり簡単ではなさそうですね」
「冷静で合理的に行動できる人というのは、物事を楽観的にも悲観的にも捉えないで、起きている現実をそのまま受け入れることができる人です。つまり、起きている現実は、どのような悲惨なことでも、都合の悪いことでも、目をそらしたり、あるいは、自分の都合よく解釈したりせずに、ありのままに認識することです。もちろん、逆もしかり。都合のよいこともです」
「当たり前といえば、当たり前のような気もするんですけどね」
「そう思うのですが、普通はそれができないのです」
「どんな局面でも、冷静沈着に行動できる人か。ゴルゴ13ですね」
行列のできるラーメン屋のラーメンはうまいか?
「ふむ。『人間は感情の動物』というけれど、それは、私達の行動が感情に支配されているからです。感情で動くのは、人間らしい、とも言えますが、今、学んでいる投資で重要なのは、同じ『カンジョウ』でも損得『勘定』のほうです。だから、得するよう、損しないよう、という意味で合理的に行動しなければいけません。でも、感情の動物である人間が、すべての出来事に対して合理的に対処することは不可能に近いでしょう。最愛の人を突然の事故で亡くしたとき、いきなり途方もない借金を抱えたとき、誰でも取り乱したり、茫然自失するでしょう」
「それは、どうしようもないじゃないですか。そんなのコントロールできたら、ロボットですよ」
「わたしもそう思います。ただ、最近は『行動経済学』といって、人の行動がなぜ合理的ではないかを研究した学問があります。これを勉強して知識を身につければ、合理的な投資がしやすくなります」
「行動経済学、ですか。どんなものなんですか」
「たとえば、『行列ができているラーメン屋』があったとしましょう。君は、特に何も考えず『行列ができているラーメン屋』イコール『おいしいラーメン屋』という推論をして、その通り行動するかもしれません」
「えっ、普通じゃないですか。それじゃいけないんですか?」
隆一はそれほど変な話でもないと思いいぶかしげに聞きなおした。
「実は、人が意思決定をしたり判断を下したりするときに、論理的な推論の過程を省略して、直感で素早く解に到達する方法のことを『ヒューリスティックス(heuristics)』といいます。効率的で手っ取り早く結論を導くのはいいのですが、正しくその解を得るための論理的な手順を経る方法『アルゴリズム(algorithm)』ではないので、しばしば、バイアス(偏り)のある結論や、必ずしも正解とは言えない結論に至ることがあります。君は、ヒューリスティックスで行列ができたラーメン店が美味しいと行動したわけですね」と、先生は、答えます。
「はあ、そうなんですか。効率的で手っ取り早く結論を得たわけです」
隆一の妙に楽観的で都合の良い解釈に、先生は眉をひそめながら続けた。
「みんなで渡れば怖くない」だと、投資で負ける
「その結論は、ヒューリスティックスによって得たものだ、と自覚しているかどうかがポイントです。そのラーメン屋がまずかったら、どうしますか? また同じような失敗が起きますよ。『多くの人がやっているから大丈夫』というような群集心理で判断・行動したという自覚が必要です。昔、『赤信号、みんなで渡れば怖くない』というギャグがありましたが、投資でそういう心理に陥ると、こんなミスが出ます。
〇人気を集めて買いが集中している銘柄なら、もっと上がりそうだと推論して、値上がりした後から買って高値つかみする
〇皆が買っていれば自分も買い、皆が売り出せば自分も売る、という取引をして、買い遅れたり、底値で売ってしまう
本来なら、皆が買い始める前に買って、売り始める前に売るのが理想です。いずれにしても、自分の心の動きを知っておくことは大切です。というわけで、行動経済学、行動ファイナンスの話をしていきます」
「行動ファイナンスですか、経済学ではなく?」
「ははは。経済の話が嫌いだったね。まあ、ついてきてください」
「先生、嫌いだなんて、一言も…いや、言ったかもしれません」
「まあいいですよ。ともかく、従来の経済学は『人は利益の追求のため常に合理的に行動する』という前提で理論ができています。しかし、現実には、人間だからこそ、常に合理的に行動するわけではありません。だから、実際には、人はどのように意思決定し行動するのか、なぜ時として非合理的な行動をするのか、という研究をする『行動経済学』という学問があります。その『行動経済学』にもとづいて投資の理論に落とし込んだのが、行動ファイナンスです。君に伝えたいのは、そんな言葉の説明より、行動ファイナンスを知らないがゆえに、非合理的な行動をしてしまい、投資のリターンを下げてしまうことがないように、ということです」
「知らないと、損する、ということですかね」
「まぁ、そういうことで、いいでしょう」
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