流行する資本主義論

 先日、ある作家の講演を興味深く聞いた。テーマは魂の転生についてだったのだが、「世界の終わりと、資本主義の終わりはどちらが早いか、同時なのか?」、また「AIの進歩は、資本主義を進めるのか、終わらせるのか?」などの問いが刺激的だった。

 筆者は、日頃から世間の資本主義論に関して、低成長であっても資本主義は維持できるといった技術的問題点を指摘することが多いのだが、資本主義の発生や終わり方について、考えを発表してみたことはない。

 以下、考えはじめの段階の議論だがお付き合いいただきたい。

 尚、ここでは「資本主義」を、「私有財産の自由な取引に基づく競争システム」(F.A.ハイエク「隷従への道」)というくらいの広い意味に捉えている。

資本主義の発生

 実際の歴史において資本主義がどう発生したのかについては、夥しい専門的な研究があるが、資本主義は、原理的には直ぐに発生しやすいものであるように思う。狩猟、耕作、工業生産、防衛、など人間集団が必要とする「プロジェクト」がその必要を要請するからだ。

(1)プロジェクトに必要な2つのもの

 人間集団のプロジェクトには、アイデアを考えたり指示を出したりする「リーダーシップ」と、仕事を達成するための道具や資源としての「資本」の2つが、ほぼ常に必要だ。魚を獲りに行くなら、船(資本)が要るし、船には船長(リーダーシップ)が必要だ。

 リーダーは、フォロワーがあってこそのリーダーだ。通常は、少数のリーダーと多数のフォロワーによってプロジェクトは進行する。

 また、生産にあって、資本と労働力の投入が必要なことについては、どこからも反対はあるまい。ただし、生産から得られる成果を、資本に帰属する利益としてどれだけ配分するのかは、そのプロジェクトなり、社会なりの仕組みによる。

 資本(の持ち主に)利益を帰属させず(例えば船は共有)、リーダーが利益を独占するような、独裁国家のような仕組みもあり得る。

【プロジェクトに必要なもの】
[1]少数のリーダーと、多数のフォロワー
[2]資本と労働(図1)

(図1)

(2)利益の源泉としての「剰余価値」

 プロジェクトの利益は、技術が共有化し平準化されるような経済では、労働者が提供するマルクスの言う剰余価値(労働者が、労働の再生産に必要な量を上回る労働を提供することによって生まれる価値)によって提供される。

 実際には、技術の進歩や変化は常にあり、製品の改変のようなものを含めた利益獲得効率の前進(マルクスの言葉では「特別剰余価値」)が存在するが、資本を中心に経済を眺めると、労働者が提供する剰余価値を典型として、「リスクを取らない人から、リスクを取る人が利益を巻き上げていく」構造によって経済は回っている(図2)。

(図2)

 但し、この図にあって「資本」の中身は、ビジネスに使いうる財産の総称であって、曖昧なものであるとの認識が重要だ。良い再投資の案件がなければ、会社なら株主=資本家が配当や自社株買いの形で資本を引き出して、趣味の悪い豪邸の建設などに無駄遣いしてしまうかも知れない。一方、いい意味では、資本の大きさは可変であり、経済活動の縮小とも両立する。

 全体としての構図は、似たもの同士で競争させられて買い叩かれやすい、リスク回避的で工夫の乏しい労働者タイプAが資本に利益を提供する図式だ。また、資本の提供者もリスクを取らない債権者(高齢の預金者などが典型)は利益を提供する側の立場だ。繰り返すが、リスクを取らない者から、リスクを取る者が利益を吸い上げるのが経済循環の大まかな仕組みだ。

(3)多くのフォロワーとリーダーの契約

 以下、資本主義的な貨幣的なものへの愛着が、直ぐに生まれやすいのではないかと筆者が考える理由を述べる。

 先ず、狩猟、防衛、農耕、工業的生産の何れにあっても、プロジェクトは、リーダーは単数ないし少数であり、フォロワーが多数で行われる。リーダーは、個々のフォロワーと契約を結ぶ必要があるが、この際に、個別の事情に応じて個々に内容の異なる契約を交わすことは現実的ではない。

 すると、リーダー側では貨幣に近い何とでも交換できる数量的なシンボルを配ることが簡単であり、フォロワーの側でも安定的・低リスクで貨幣相当物を受け取ることが出来るのが安心であって、喜んで自分の平均的生産性以下の条件で労働力を提供する。

(4)資本の重要性の拡大

 物質的な生産力を高めようとすると、或いは他の集団との競争上の必要性からも、プロジェクトはより大きな資本を必要とする傾向を持つ。財産はなにがしか私有(自分の持ち物は、自分のもの)が自然であるが、プロジェクトの遂行のためには、メンバーに資本を提供して貰わねばならない。

 このためには、資本の提供者に対するプロジェクトの利益配分が必要になる。資本の形でリスクを取るメンバーがリスクを取らない労働・資本の提供者から得られる価値を吸収する仕組みが生まれることが自然だ。

 以上の(3)と(4)の要因は、「世界が終わる直前」でも、資本主義的な仕組みが直ぐに生まれることを必然としているように思われる。

 従って、文字通りに世界が終わってしまっては資本主義も続かないだろうが、世界が終わる直前まで、資本主義は終わらないということなのだろう、と筆者は考えた。

(5)資本主義社会と個人の経済力

 上記のように成立した資本主義社会では、個人の経済力はどのように配分されるだろうか。権力に起因する収益力と、資本の提供に起因する収益力との、2つの力が働くと考えられる。働く収益力の大きさを矢印の大きさに、個人の経済力を丸の大きさに表して、典型的な状態を図(図3)にしてみた。

(図3)リスクとリーダーと経済力

  図で表現しきるのは難しいが、「安定して、人と同じように働いて、安定した報酬を貰いたい」という圧倒的に多数のサラリーマン的で「リスク回避的」な人々(労働者タイプA)が資本やリーダーシップに対して恒常的に多大な利益を提供している。資本を提供する形でリスクを取る人が、リスクを取らない人から経済価値を吸い上げるのが典型的な資本主義経済の価値の動きだ。

 また、リーダーが持つ権力にも価値を吸い上げる力があることにも注意が要る。一般の会社であっても、社長には社長室と秘書と社長らしい報酬くらいは与えて当然だろうといった力学が働く。

 この世界での経済力の圧倒的なチャンピオンは、株式を大量に持っている多くは創業者のオーナー社長で、例えば、ビル・ゲイツ氏やジェフ・ベゾス氏のような人々だ。

 但し、最近のサラリーマン社長のようなメンバーは、時に油断のならない存在で、主に自らの知力を活用して資本家に対してブラックボックスを作り、資本から利益を抜き取る「労働者タイプB」になることがある。

 資本収益力と権力収益力がどのようなバランスになっているかで、社会の形は変わる。例えば、資本が発達していなくて、権力者のみが圧倒的に強い「○○王朝」と呼ばれるような独裁国家があり得る。

 また、大衆が手厚く資本を持っていて、経営者や政治家の力が弱い大衆資本主義社会を実現することも出来るはずだが、この場合、資本の意思を誰がリードするのかという新たな問題が生じることもある。

 ただ、何れの社会になっても、人が人を利用してプロジェクトを進める形は変わらないので、資本主義的な、貨幣的なものへの執着と、リスク回避者がリスク愛好者に価値を提供する仕組みは生じて発達するだろう。

 繰り返すが、資本主義は、世界が終わるギリギリまで終わらない、と筆者は思った。

(6)AIのシンギュラリティはどう起こる?

 さて、これにAIが加わるとどうなるのだろうか。一般に言うAIのシンギュラリティとは、AIの能力が人間の能力を完全に上回る状態のことで、これはかなり先(少し前には2045年くらい)に実現するかも知れないと言われていたのだが、昨今のAIの技術的進化でこれがもっと早まるものではないかと、心配されるようになって来た。

 今や世間的には、AIの進歩に期待する声と、AIの進歩を懸念し開発スピードを遅らせるような管理を行うべきだとする声の両方がある。

 筆者は、AIは技術を進歩させて人間の主に職業上の要不要を大きく変えるとしても、リスク回避的な人間とリスク愛好的な人間との関係を変えないので、資本主義の存否には大きな影響を与えないと思ってきた。

 ところが、ふとした気づきで、これが少しちがうかも知れないと思うようになった。大きな見落としに気づいたのだ。

 AIの進歩は、いきなり世界の真理に辿り着くような形で現れるのではなく、人間的な判断を人間よりも間違えずに、より大きな確率で正しく行うような形で現れる。将棋や囲碁のようなゲームの世界で、AIと称せられるソフトは、それぞれのゲーム全体を解ききった訳ではないが、人間が行う意思決定の遙かに上を行く確度で正解に近い答えを出し続ける。絶対的に正しいとまで信頼は出来ないが、能力において人間はかなわない。

 この過程でAIの大きな強みは、疲れないことと、いわゆる「ビビる」といった感情の影響を受けないことだ。この能力が普及した時に何が起こるかを考えてみると、以下のようなことではないか。

 先ず、リスクを怖れるという感情の影響を受けなくなると、リスク回避的に労働力を安売りするような判断を人が行わなくなって、「資本収益力」が無力化される。

 次に、「権力収益力」だが、これは主として知的な能力とそれを使う胆力によって発生する力だ。仮に、AIが人間個人の能力を超えた判断力を持つなら、リーダーとフォロワーの間に出来ていたはずの「個人の能力差」はすっかり無力化される。すると、権力による収益差も発生しなくなるではないか。

 AIが個人のツールとなって、判断の代わりをするようになるとは、このような状態を意味するのではないか。即ち、AIの進歩と民主化(=メンバー全員がAIの力を利用できるようになること)が完全に進むと資本主義の存立基盤は無くなってしまうということだ。

 将棋の大会で想像してみよう。一部の出場メンバーだけがAIでの研究を許されている将棋大会と、出場者全員が名人の能力を遙かに凌駕するAIソフトをインストールしたノートパソコンを持って参加できる将棋大会とではどちらがフェアか。後者がフェアに決まっているが、この場合そもそも戦う意味がなくなってしまう。資本主義は、想像上、こうした将棋大会のようになくなってしまうのではないか。

 おそらく今の当事者にそのような意識はないのだろうが、AIの開発を遅らせて特定の人間の間で管理したいとする向きは、AIの民主化による資本主義的構造の崩壊を回避して、社会メンバー間に残る有利不利を残したいのではないかなどと勘繰りたくなる。

 気持ちとしては、社会の全てのメンバーがAIの進歩の果実を享受できるような「AIの民主化」に一票を投じたくなる。

 以上、他愛のない思考実験に長々とお付き合い頂いたが、投資家である読者にとっては、リスクに臆さないAI的な判断の先取りが有利であることを現時点でアドバイス出来そうに思う。