学力偏差値と運用力

「なあ、ヤマザキ、相場が頭でするものなら、東大には蔵が建つよ」。これは、若い日の筆者が、ある運用会社で働いていた時に、隣の席に座っていた上司が繰り返し口にしていた台詞だ。意味を解きほぐすと以下のような内容だ。

(1)頭がいいと運用で有利だというなら、東京大学は有利に違いない。(2)相場で勝って大儲けして、蔵を建てることが出来るはずだ。(3)しかし、東大にそのような蔵があるという話はない。(4)従って、頭の良し悪しは、運用の上手さに無関係なのだ。わが上司殿は、こう言いたかったのだと思われる。

 昨今のように大学が独立行政法人化して、各大学が独自に資金を作ることが求められるようになると、大学関係者はこの話を冗談として聞き流すことが出来にくいかも知れないが、真偽のほどはどうなのか。

 率直に言って、運用者の学力偏差値的な能力と運用の能力には強い関係が無いように思われる。筆者はリアリストなのではっきり言うが、ビジネス全般にわたる能力と学力偏差値には正の相関がある。企業が採用活動で「学歴フィルター」を用いることは、倫理的には議論があっても、経済合理的だ。しかし、こと資産運用の仕事に限ると、その関係は希薄であるように思われる。

 なぜなのか、はっきりした理由は分からないが、学力偏差値で差が付くような能力の内容(推論、計算、記憶、根気、…)と、資金運用の能力は関係が薄い。それが、体育の成績と、お金儲けの才能と、小説を書く能力とに関係がなさそうに見えるような事情なのか、サイコロを振るのに学力が関係ないような事情なのかは分からない。

 ただ、典型的なファンドマネージャーの仕事ぶりを考えると、大学で学んだ知識をさらに実用に応用できるような学力が必要な仕事であるようには思えない。

 例えば、わが国でも1980年代の終わりから1990年代にかけて「金融工学」という言葉と共に資産運用の世界にオプション・プライシング・モデルをはじめとする複雑な数学が取り込まれた一時期がある。この時期に、いわゆる理科系の数学に強い人材が運用業界に増えたが、彼らは、モデルの仕組みには強かったが、運用そのもので目立って成果を挙げて優位に立った訳ではなかった(逆に、特にダメということもなかった)。

純粋な「運用力」とは

 さて、そもそも、「運用力」とは何かを定義しなければなるまい。

 純粋な運用力は「同じリスクの条件の下に、稼ぐことが出来るリターンの大きさ」で測るべきものだろう。

「同じリスク」が、単にボラティリティの数字を指すのか、質的なリスクの内容の差(日本株のリスクか、為替リスクか、等のちがい)を含むものなのかは、必要性によって変化するだろうが、「運用力」が個人の能力を論じるものであるなら、運用者に与えられた条件の差を反映するのがフェアだろうから、質的なリスクも考慮して論じるべき場合が多いだろう。

 但し、例えば「日本株運用のリスク」を論じる場合に、単に日本株ポートフォリオとしての全体のリスクを論じるのか(シャープ・レシオだけ測るとこれに近い)、大型株・小型株の比率を調整して比較するのか(両者は「別物」と言えるくらいかけ離れることがある)、追加的なリスクがβ値変動のリスクなのか、個別銘柄選択に起因する残差リスクなのかといった要因まで問題にするのか(プロの運用を丁寧に評価する場合には意識すべき差異だ)については、比較検討の「解像度」によって様々だ。

 しかし、リスク面の条件を揃えた上で「追加的なリターンを稼げるか否か」、それが再現性を伴って有効な能力としてリアリティがあるか否か、ということがあくまでも「運用力」の本体であるべきだろう。これを「純粋運用力」と呼ぶことにしよう。

 実は、今回筆者が「運用力」について論じてみたくなったきっかけは、昨今、わが国に「資産運用特区」を作って、外国の運用会社・運用人材を招き入れたいという構想が話題になったことだった。この話の中で、「高度な運用力を持った外国人人材」という言葉を何度か聞いて、ここで言う運用力とは何のことかと気になったのだ。

 そもそも、「純粋運用力」を持った人材がどれだけいるのか、それを誰がどうやって見分けるのか、該当者がいたとしてわざわざ日本に来る理由があるか、など疑問が次々に湧く。

第二の「運用力」

 現実を理解するためには、別の「運用力」を定義することが必要に思われる。それは、「運用ビジネス力」とでも呼ぶべき能力だ。

 具体的には、運用ビジネスに対する理解を背景とした顧客とのコミュニケーション能力、プレゼンテーション能力、ビジネスのデザイン力、実行力のような総合的な運用ビジネス能力だ。

 こうした「運用力」に優れた外国人なら、そこそこの数がいるかもしれない。

 ビジネスとしての資金運用を考えると、顧客を惹きつけ、説得し、納得させるような種類の能力が存在する。この種の能力の持ち主は、日本の運用会社にもある程度は存在する。

 しかし、運用に関する説明やプレゼンテーションに当たって、欧米人が有利であり優れているケースがしばしばあることは、実感として認めざるを得ない。資金運用というビジネスの歴史的背景が影響しているのかも知れないが、同じ事を日本語で説明するよりも、英語やフランス語で説明する方が格好良く、有り難く聞こえるし、その話者もいわゆる欧米人の方が有利であることは否めない。ある種の音楽やスポーツにおける差よりも大きいかも知れない。

 顧客に「期待させて、対価を受け取る」運用業のビジネス・モデルを考えると、「運用ビジネス力」には大きな価値がある。「口先だけだ」と馬鹿に出来るものではない。プロの運用力は主に「口先」に宿る。

 もう少しだけ「資産運用特区」に寄り道すると、海外企業誘致よりは国内の運用ビジネスが栄えて新規参入が活発化するような規制緩和を先ずは行うべきだろうし、それは特定の地域だけでなく全国で展開するといい。

 一方、特区に来る外資系運用会社による「多様な運用商品」に期待する向きもあるようだが、果たしてどのような商品なら本質的な意味で投資家のためになるのかについては議論の余地がある。かつて、1990年代の終わりに「高度な金融技術を応用した先端的商品」との触れ込みで、主に外資系証券会社が組成して個人向けに売られた商品が、その後に多くのトラブルを生んだ「仕組み債券」だった事実を思い出すべきだろう。

 投資家の商品選択にあっても、あるいは金融行政にあっても、「高度な運用力」なるものが現実に有効な形で存在するという素朴な思い込みは危険だ。

 些か悪い面を強調しすぎたかも知れないが、運用ビジネスにあって真に有効な能力は、確かに測ることも出来ないし将来の継続がアテに出来ない「純粋運用力」よりも、「運用ビジネス力」であり、運用会社の経営としては、自社のこの能力こそが伸ばすことが出来て、伸ばす価値のある能力だとの認識が重要だ。

第三の「運用力」

「力」と呼ぶからには、「運用力」も将来にも有効な継続性のある影響力だとイメージされる。しかし、現実には、将来は過去の単純な延長ではない。過去に優れていた運用商品・運用者が、将来も優れているかどうかについては、「両者はほぼ無関係である」ということが、運用の常識として強調されるところだ。

 一方、こうした事情を分かった上で話を逆に見ると、単なる幸運であっても、それを有効に将来にも影響するように見せることが出来れば、そこでは有効な力が生じたような効果が得られると言える。

「幸運を実力に見せる力」も一種の「運用力」なのである。

 アマチュアの例で考えてみるに、同じ程度の規模と幸運による「億り人」(投資で1億円以上を稼いだアマチュア投資家の俗称)であっても、大いに尊敬される者と、それほどでもないと評価される者との「差」が現実にはある。この差をもたらすものは、たまたまの実績を能力に起因するように見せる何かであり、ある種の「運用力」と呼べる。第三の運用力として、「幸運力」とでも呼んでおこう。

 そして、この議論は、プロのファンドマネージャーにもそのまま当て嵌まる。

 ここで、直ちに頭に浮かぶのが「N=1問題」だ。即ち、たまたま上手く運用できた個人の経験は、数年だろうが数十年だろうが、特定の人の特定の状況から生じたデータであり、統計のサンプル数で言うと「1つ」(N=1)に過ぎないという、例の問題だ。

 この問題を常に突き詰めていると、友達が減ったり、人生がつまらなくなったりする危険があるが、運用や「運用力」について真面目に考える時には思い出す必要がある。

 単に幸運であったに過ぎないお金のカリスマに、真の運用力(純粋運用力)があると勘違いする背景には、「運用ビジネス力」や「幸運力」が作用している可能性が大きい。

 また、勘違いを後押しする要因としては、学歴・社歴などの「経歴の罠」、実際に大きく稼いだという「実績の罠」、当人が大いに努力や修行を重ねたという「努力の罠」などが存在する。

 特に「努力の罠」については、解釈する側が「自分も努力すると、運用力を身につけられるのではないか」という希望の感情が交じることがあるので、なかなか排除できないことがある。

 誰であっても「稼いだ!」という実績については出し惜しみせずに大いに讃えたらいいと思う。しかし、その人物や商品について、本当に運用力があると「信じる」のは止めた方がいい。標語にするなら、「実績は、讃えよ!しかし、信じるな!」だろう。

 実際には、「純粋運用力」を観測し、且つ信じるに足るデータや状況に出合うことは困難だ。また、「純粋運用力」で観測する指標自体が、「平均投資有利の原則」に従って平均ポートフォリオのパフォーマンスに吸収されていく公算が大きい。

 夢のない結論で恐縮だが、投資家は「運用力」なるものが存在すると、簡単に信じ込まない方がいい。