筆者にとって、資産運用は、希望して配属して貰ったり、転職して選んだりした自分で選び取った仕事だった。もともと、数字で結果が出て、勝ち負けがあるゲーム的な世界が好きだったので、結果に対するプレッシャーはあったが、自分にはありがたい仕事だった。プレッシャーがある分、結果に対しては自分の成果だと感じるリアリティがあった。今にして思うと、筆者も過剰なリアリティを感じていたのかも知れない。

 運用の結果は、言うまでもなく「運」に大きく影響されることが否めない。つまり、自分が意思決定の時点では文句なく正しい投資行動を取っていても、運が悪くて結果が悪いことがあり得るし、もちろんその逆もある。

 こうした不確実性を自分の仕事に対する評価の問題としては十分受け入れていたつもりだったが、後年、専ら正しい原則を認識する上での問題として、この「結果に伴う運」に悩まされることになる。この悩みは、自分が直接資産を運用する仕事から離れてからむしろ増加した。現在進行形の悩みの一つである。

 本稿では、投資や資産運用の世界にあって、正しい認識を妨げる結果に対する過剰なこだわりについて考えてみたい。筆者は、「結果」に対して過剰な思い入れを持つことを「悪しき結果主義」と呼んでいる。20代の頃から、しばしば頭の中で鳴り響いている言葉だ。

 悪しき結果主義者達のパターンを彼ら自身の典型的な台詞で分類すると、以下の4つのパターンが思い浮かぶ。

  1. 「優劣は運用で勝負して決めよう」
  2. 「私は実際に儲けた人の言うことしか信じない」
  3. 「データを見て考えましょう」
  4. 「私はこうして上手くいきました」

 以下、順に説明する。

「優劣は運用で勝負して決めよう」

 悪しき結果主義は、例えば以下のような形で現れる。

 筆者が若かった1980年代頃はモダン・ポートフォリオ理論と呼ばれるような投資理論が日本の機関投資家の運用現場に入って来た時期であり、こうした理論や周辺の研究を運用の実務に応用することが有効だった。理論を実行する上で役立つリスク管理のツールが導入された時期でもあった。若手のファンドマネージャーである筆者は、いち早く理論を学習しツールの使い方にも慣れて実際の運用に使っていた。

 しかし、こうした仕事ぶりを快く思わない先輩ファンドマネージャーが少なからず職場に存在した。彼らは、株式に熱心な個人投資家とたいして変わらない知識と運用経験の持ち主で、多くは大手証券会社の情報を頼り、せいぜい証券会社のアナリストの真似ごとのような企業分析を武器に資金を運用していた。彼らからすると、新しい理論を振りかざし、証券会社の投資情報をあからさまに馬鹿にする若手ファンドマネージャーは大いに目障りであった。今までの仕事ぶりを変えたくなかったのだ。

 彼らの一人が筆者にこう言った。

「あなたの投資理論とやらが本当に役に立つのかどうか、1年間運用してみた結果で、あなたのファンドが勝つか、私の相場観で運用するファンドが勝つか、その勝負で決めようじゃないか」

 筆者は、たかだか一年の運用結果は「運」による上下の影響を強く受けるので、この「勝負」には気乗りしなかったのだが、次のように言うしかなかった。

「運用には結果が付きものだから、較べるのは勝手です。好きにして下さい。でも、条件やリスクの大きさのちがうファンドの運用をリターンだけで較べるのは正確でないし、運に大きく左右される一年の結果で方法の優劣に関する結論を出そうとするのは不適切だということは、分かっておいて下さいね」

 この種のチャレンジャー(?)は一人ではなかったが、皆、1年も経たないうちに筆者の目の前に現れなくなった。

 一方で筆者の運用が「不運」に見舞われなかったことが有り難かったが、それに加えて、当時の株式売買の手数料が固定手数料で大変高かったことが幸いした。先輩ファンドマネージャーの「相場道」は、チャートを見て売買を重ねることだったり、大手証券会社の投資情報を早く知って株式を売り買いすることが実質的な内容だったので、売買手数料の負担が重かったのだ。一時は調子が良くても、3カ月から半年で調子を崩すのが常だった。

 かつてのやり取りを今振り返ると、「1年」なら運の要素が大きいが、「数年以上」の計測期間があれば、運用の実力が十分反映されるというような、「運用力」の存在に対する素朴な信頼がある点を「甘いな!」と思うのだが、まだファンドマネージャーの仕事に夢を感じていた頃のことだ。

 この種の「私の運用成績と較べましょう」的な結果主義については、投資家が集まるイベントの懇親会のような場所で、個人投資家が、プロの運用者を相手に自分の運用成績について長々語るのを傍で聞いていて、プロの運用者氏が気の毒になることがある。その個人投資家にとっては、自分の運用成績は真剣勝負の大事な結果なのだろうが、プロのファンドの運用成績と直接較べられるものでないことは言うまでもない。

 もっとも、近年は、こうした状況も我慢して顧客の前に出るのが、プロの運用者の仕事の大事な一部になっているようだ。ビジネス上はそれが合理的なのだろうが、ご苦労なことだと思う。

「私は実際に儲けた人の言うことしか信じない」

「私の運用成績と較べましょう」というタイプの投資家の他に、個人投資家によくある「悪しき結果主義」の持ち主は、「(自分は)実際に儲けた人の言うことしか信じない」、「実際に儲けた人のやり方を真似たらいいのだ」と(聞いてもいないのに…)声高に言い募るタイプの人物だ。

 率直に言って「自分は他人を評価する立場にあるのだ」という態度が鼻につくのだが、このタイプの人は、実は、金融詐欺などに騙されやすい「弱い人」なのだ。彼(彼女)を騙すには、自分がいかに投資で儲けたかという話をリアリティを持って伝えたらいいだけなので、詐欺師にはいいターゲットだ。

「悪しき結果主義」の持ち主の共通の特色として、「実際に起こったこと」を極端に過大評価する傾向が挙げられる。

 現実に起きていないことを信じないという信念は、時に慎重で有効な方針として機能するが、現実と見えるものの中からたまたま気に入った方針を盲信することが多く、「投資哲学」は聞くに堪えないことが多い。

 運用の専門家にとっては、「私と勝負しよう!」と意気込まない分扱いやすいが、「あなたの個人資産の運用について教えて欲しい」などと質問してくることがあるので、この種の人物が苦手な人もいるだろう。

「データを見て考えましょう」

 近年、特に厄介だと思う「悪しき結果主義者」は、「論理で結論が出る話の手前でデータにこだわる人」だ。

 これは、金融・運用業界の専門家にも少なくないし、FP(ファイナンシャルプランナー)のような準専門家やメディア関係者にも多いので、大量のもっともらしい害毒が放出されている。

 思いつく例を幾つか挙げてみよう。

 ドルコスト平均法が「有利だ」と言えるものでないことは、「機会費用」、「サンクコスト」の概念を知っていれば直ちに分かることだが、例えば、リーマンショックを含む期間のデータを見せることで、「有効だ」と言い張るような場合がある。運用はそもそも20年、30年と続く営みなので、リーマンショック前後の20年といったデータは、有効な原則の根拠にも証明にもならない「特定の一例」に過ぎない。将来の意思決定のためには無駄なデータだ。

 インデックス運用にアクティブ運用を組み合わせる「コア・サテライト運用」のような方法は、少し考えると論理矛盾が分かりそうなものだが1、たまたま上手く行っている基金の例などを持ち出して「工夫によっては上手く行く」などと言いたがるような向きもある。

 仮にポートフォリオを作る作業に意味があるとすれば、ESGで制約された運用は、無制約な運用に勝ることは論理的にはあり得ないのだが、「ESG投資が有効かどうか、データを見て検証すべきだ」と言うともっともらしく聞こえる。現実には、実際に運用されている2つのポートフォリオを較べた場合に、ESGを反映したポートフォリオがたまたま好成績を収める可能性はある訳だが、それがESG投資の優位性の根拠になるわけではない。

 何れも、論理で分かることに結論を出そうとせずに、根拠にも証明にもならないデータを持ち出して思考をストップさせる点に迷惑がある。

 困るのは、一つには、10年、20年、30年といった期間のデータは、運用の検証としては全く不十分であるにも拘らず(運用期間を20年と想定するなら、統計のサンプル数で言うとN=05〜15にすぎない)、人間の体感としては意味のあるデータであるように思いやすいことだ。

 そして、もう一つには、データを挙げて検討した方が、本当は頭を使っていないだけなのに、立派で丁寧な検討に見えることだ。

 投資や金融の世界で「正しい」と言える重要な原則の多くは、データなしでも論理で十分結論が出る話だ2。結論が分かっている話なのに、その手前でぐずぐずとデータを検討することで時間を食うのは全く非効率的だ。

 データ好きの悪しき結果主義者にまともに付き合うと、時間と根気を無駄に消費する。しかも、この連中は、書籍や記事を書いたりするので、時に影響力が大きく、同類を増やすこともある。

 要注意の相手だ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1.アクティブ運用の組み合わせでは凌駕できないからインデックス運用が「コア」とされているのだ。「サテライト」と名付けたからと言ってアクティブ運用を上手く選べるようになる訳ではない。サテライト部分は無意味且つ余計である。

2.「インデックスファンドのアクティブファンドに対する優位性」、「手数料コストの高い投資信託がダメであること」、「運用期間が20年あっても、絶対損をしないとは言えないこと」、「経済が低成長でも株式投資でリスクプレミアムが得られること」、など枚挙にいとまがない。

「私はこうして上手くいきました」

 悪しき結果主義者の最後の類型は、自分の経験に固執する人物だ。これは、投資家のプロ・アマを問わず、それぞれに一定の割合で存在するようだ。

 例えば、投資銘柄の選び方、売買タイミングの判断方法、アセットアロケーションのリバランスの方法などについて、自分が過去にやって来て、結果的に上手く行った方法をあたかも実証で有効性が証明された方法であるかのように語る。

 プロの運用者の場合は、対顧客用のアピールがビジネス上必要なので、少々大目に見てやる必要があるかも知れないが、先ほどの比喩では「N=1」に過ぎない自分の経験が、本人にとっては無上の価値とリアリティを伴った真実のように思えるのだろう。

 一般に、人がどの程度知的なのかは、その人が自分自身をどの程度客観視できるかから推測することができるが、投資にあってはスリルの体験と実際の損益が絡むので、自分の経験を「単なるN=1にすぎない」と客観視できなくなる人が少なくない。

 普通の話では立派な教養人であっても、投資の話にあっては自分の経験を過大評価する愚か者になる、という人が少なくない。それだけ損得の刺激が伴う投資の経験は強烈なのだろう。

 そして、そういった話を、「実際に経験したことだから価値がある」と思って聞きに来て感心する人がしばしばたくさん集まってくるので、話者には反省の契機が生まれにくい。悪しき結果主義者が再生産される。

 投資には、「経験」の過大評価を通じて、時に人間の知性を劣化させる魔力がある。古今東西のマーケットが本質において進歩しにくいことの大きな原因だ。