誰のどのようなお金の運用なのか?

お金の運用を考えるにあたっては、誰の、どのようなお金の運用なのかを意識することが必要だ。

「運を用いると書いて運用!」というくらいのもので、運用にあっては、常に確実な結果が得られる訳ではないから、資金の「立場」を意識しなればならない。

「運用で大事なのは結果だ。これは誰の資金でも同じことだ。ともかく儲けたらいいのだろう」といった、がさつで乱暴な割り切りは通用しないのだ。

個人のお金を運用する場合、運用に失敗しても、他人に迷惑が掛かる訳ではない。また、運用方針、あるいはポートフォリオそのものを大きく変える場合であっても、個人が自分のお金を運用しているのであれば、自由に運用して誰かから文句が出る訳ではない。誰かに対して、説明が必要だったり、同意を得ることが必要だったりすることもない。

運用する資金が投資信託のお金になると、どうなのだろうか。この場合、運用者(ファンドマネジャー)が第一に考えなければならないことは、自分が運用しているのは、他人(投資信託の場合「受益者」)のお金だということだ。投信のファンドマネジャーは、受益者の期待に応える必要がある。

年金資産の運用は、投資信託の運用と違いがあるのだろうか。「他人のお金」を運用するという意味で、両者の運用には共通点がある。

しかし、年金運用が投資信託の運用と異なるのは、投資信託は自発的にお金を任せた投資家の資金であることに対して、年金の資金の運用は運用方法を選ぶことが出来ない年金加入者から預かったお金の運用だということだ。

それでは、企業年金などの年金運用と、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が運用する公的年金の積立金は、共に年金資産の運用だが、運用法を考える上で違いがあるのだろうか。詳しくは後述するが、筆者は大きな違いがあると考える。

個人vs.投資信託

当たり前だが、運用資金がどのようなものであれ、運用の原理そのものは変わらない。個人に向けて、「初心者はアセット・アロケーションが難しいので、バランス・ファンドがいい」とか「高齢者の分配金ニーズに対応する」とか「決算期がない分、個人の運用は有利だ」といった言いぐさは、それぞれ理由は異なるが、金融論的には誤りだ。どんな資金でも、期待リターンが高い資産を組み込むことは有望だし、分散投資によるリスク低減は有効だ。つまり、投資信託で好ましい運用は、個人が真似をしても「いい運用」になる筈だ。

個人の運用にあっては、自分の状況をよく理解した個人がよかれと思うポートフォリオを持つことに制約はない。

では、投資信託ではどうか。投資信託の場合、顧客(投信用語では「受益者」)の立場を考えねばならない。少なくとも公募の投資信託の場合、受益者は数多くいて、それぞれに異なる事情を抱え、異なる位置づけでファンドを買っている可能性がある。

ある受益者は、リスクを取る運用の全てを1本のファンドに集中して資産配分も含めて上手くやってくれることを期待しているかも知れないし、別の受益者は、特定の分散投資の一部として特定のアセットクラスの運用を分担してくれることを期待しているかも知れない。両者は、事後的に結果がよければ喜ぶ点で同じだが、結果そのものは運用者がコントロールすることは出来ないし、運用段階で両方の希望に合わせるのは無理だ。

運用者は、顧客に約束したファンドの運用方針から大きく逸脱しないようにして、顧客の期待に応えるのでなければならないだろう。例えば、国内株式に投資するファンドであれば、一定以上の株式組み入れを維持し続けることが要請される場合が多いだろう。

国内株式でどれだけの大きさのリスクを取るのかの調整は、顧客側がファンドへの投資額を増減して行うのが、一番無理がない。

「株式100%からキャッシュ100%まで自由に調節し、絶対リターンの確保・向上を目指します」という運用方針のファンドもあり得るが、この運用方針に納得できる顧客だけにこのファンドを売るのでなければまずいだろう。

投資信託の運用は、個人の資産運用よりも一段階不自由なのだ。但し、この不自由さは、運用者にとって一種の気楽さにもなる。

投信運用vs.年金運用

投資信託の運用と、年金運用、たとえば企業年金の運用とで違いはあるか。

顧客のお金を運用するので、運用内容を顧客側の理解と一致させなければならない点は両者同じである。その他に考慮しなければならないファクターがあるか。

違いは、最終的な資金拠出者の性質にある。投資信託の場合、原則として運用方針に納得した投資家だけがファンドに投資していると考えていいが、年金運用の場合、納得したのは基金であって、個々の加入者全てではない。運用に関する情報提供と納得のプロセスは、運用者と基金の間だけでなく、基金と加入者との間でも必要だ。基金は、加入者に対して、運用計画全体とともに、個々の運用委託の内容をたとえばリスクとリターンとに関するデータを示すなりして、説明する必要がある。

年金運用にあっては、運用の内容は、多くの人が妥当だと思えて、リスクとリターンに関する説明が可能なものである必要がある。すると、必然的に、理解できない複雑な内容の運用や、全く新しく先例のない運用は、選びにくく、年金運用にはある種の「保守性」が必要だという理屈になる。

「高い期待リターン」、「先進的」、「伝統資産(内外の債券・株式)との相関が小さい」などの触れ込みで、年金資産の運用に各種の新奇なオルタナティブ(代替)運用を持ち込もうとする動きがあるが、年金運用に必要な保守性の観点からは疑問がある。

新しい運用は年金運用以外の運用で取り組むといい。それに、そんなに都合よく儲かる運用なら、運用者が自己資金(ないし借り入れ)で運用し、わざわざ売り込みに来ない筈なのだが、(特に海外の)「新しい!」に弱い顧客が少なくないのが現状だ。実際には、売り手の側では、手数料が高い(かつ隠れている)商品を売りつけたいだけなのだが。

運用内容の選択は、主として基金の責任によるものだが、運用機関の側でも、運用内容の説明との一致を投資信託の場合よりも厳しく求められることが多い。年金運用は、顧客である年金基金と直接やりとりする必要があることもあり、ファンドマネジャーとしては、投資信託の運用よりも窮屈な運用だ。

企業年金運用と公的年金運用のちがい

それでは、企業年金と公的年金の間で、あるべき運用の姿に違いはあるか。「ある」と筆者は考える。

企業年金の場合、母体企業が選択した年金のシステムとリスク許容度の中でより効率の高い運用を目指せばいい。理想の実現は簡単ではないが、目標設定はシンプルだ。

巨額の資産を運用し政府が主体となる公的年金の場合は、市場において「池の中の鯨」的状況にあることを意識しなければならないし、社会的なデザインとして政府が資本市場を通じて民間経済に関わることの可否を考えねばならない。

最近のマーケットでは、公的年金を運用するGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の運用方針見直しが、株価対策に使われるのではないかという憶測が公然と語られている。しかし、1990年代の年金福祉事業団時代にやはり株価対策として行われた「公的資金の買い」は、一時的に株価を上げたものの、他の市場参加者から手口がよく見えていたため、この買いが利用されるのが常であった。

公的年金の場合、運用計画の説明責任を十分果たすことと、資金を情報漏れなしに不利なく運用することの両立が難しいのだ。

また、公的年金がこれ以上日本株を買い増すと、GPIFが日本の大半の大企業に対して実質的な大株主として関わることになる。政府が民間企業の経営に干渉することになるし、政府は、それぞれの業界で民間企業を監督する立場にもあるので、株主と監督者を兼ねる利益相反の問題が生じる。

端的にいって、経済全体のデザインとして、政府が民間企業の株式を保有する形は好ましくない。政府は、経済環境を良好にすることに集中すべきであって、それで株価が上がるなら、民間が株を持っていればいい。

アクティブ・ファンドへの配分増大や、プライベート・エクイティなど「先進的」とされる運用に公的年金の資金を配分すべきだとの意見もあるようだが、運用における先進的なチャレンジは意欲のある民間の資金運用主体が行えばいい点は企業年金の運用と同じだ。

また、そもそも賦課方式である日本の公的年金が、現在のように大きな積立金を持つ必要はない。過大な積立金を持ち、楽観的な経済見通しに基づいて「稼げる」と言い張って、「年金は100年安心だ」といっているのが、大凡の構図だが、本来、積立金の規模を適正化することを考えるべきだ(もちろん給付と保険料財源の見直しも必要だ)。

金融ビジネスにあっては、よりリスクの大きな運用は、より手数料が大きい。一連の運用見直しは公的年金の運用を、金融版の公共事業利権のようなものに流用することになるだろう。運用業界は、「巨大なカモ」の登場に期待を寄せている。

目先のマーケットの問題としては、「公的年金の買い」に期待と注目が集まるところだが、仮にそのようなことになった場合、中長期的には心配が多い。