人事は強力な「フォワードガイダンス」

 今年は春に日本銀行の正副総裁人事がある。投資家にとって近年最大の関心事の一つと言っていいだろう。以下、日銀の次の総裁人事に関して、なるべく細かな専門的議論に踏み込まずに、投資家が押さえておくべきポイントをまとめてみたい。

 正副総裁(副総裁は2名)を含む日銀の政策委員会の委員任期は5年だ。政策決定会合は多数決による意思決定が行われるので委員の任命は将来の金融政策の決定に長期間に亘って影響する。

 中央銀行が公式な発言等を通じて将来の政策行動を半ば約束してあらかじめ予告することをフォワードガイダンスと呼ぶ。フォワードガイダンスは、中央銀行の将来の行動に対する予想を通じて経済関係者に広く影響を与えるので、中央銀行にとって重要な政策手段の一つだ。今年行われる日銀の正副総裁人事は5年先まで影響が及ぶ「人事をもって行うフォワードガイダンス」だと言える。もちろん、組織運営の問題として、総裁と副総裁、特に総裁の方針は政策委員をリードするので、日銀の金融政策決定にとりわけ大きな影響を与える。誰を次期総裁に選び、どのような金融政策の方針を掲げるのかが注目される。

 日銀の正副総裁は時の内閣が選んで、国会で承認されて任命される。事実上、時の首相が選ぶことになる。

 過去2回の総裁人事は何れも故・安倍晋三元首相によるもので、積極的な金融緩和を大方針とする黒田東彦総裁が選ばれた(金融緩和に積極的な意見を持つ論者は通称「リフレ派」と呼ばれる)。安倍氏及び後任だった菅義偉前首相が黒田氏の後任総裁を選ぶのであれば、おそらくリフレ派の後任総裁が選ばれて現在の金融政策が継続することが予想された。しかし、岸田文雄首相が後任者を選ぶ場合にどうなるかは不明だ。岸田氏は、首相就任時には金融政策の継続性を維持する方針を述べたが、過去の自民党総裁選の機会などには安倍氏の路線の見直しに言及しており、現在の金融緩和政策を転換する方向に本音があると目されている。筆者もそのように予想する。

 黒田総裁時代の過去10年間では、大幅な金融緩和を背景に長短金利の低金利と円安気味の為替レートが実現すると共に、株価は大幅に上昇した。日銀の次の体制が示唆する金融政策の方針は、投資家が将来の金融環境に対して持つ期待(「予想」のことを経済学風には「期待」と呼ぶことが多い)に大きく影響する。新総裁の就任後直ちに金融政策が変更されなくても、正副総裁の顔ぶれが決まった時点でマーケットには大きな影響が出る可能性がある。

黒田総裁時代の10年を評価する

 次期総裁人事について論じる前に、黒田総裁時代の日銀の金融政策に対する評価をまとめておこう。

 先ず、「世評」についてまとめる。

 2013年の黒田総裁の就任からしばらくの間は株価の上昇と雇用環境の改善などもあって、「黒田バズーカ」などと呼ばれた大胆な金融緩和政策を歓迎するムードが圧倒的に優勢であった。

 しかし、その後2014年の消費税率引き上げに伴う景気の停滞や、当初日銀が掲げた「2%」のインフレ目標がなかなか達成されないことなどから、日銀の政策を疑問視する声が出始めた。

 2018年の黒田総裁再任後は、2019年の消費税率引き上げ、2020年からの新型コロナの感染拡大などの大きなイベントがあったが、「2%」は相変わらず実現せず、日銀の政策に少なからぬ「手詰まり感」が漂い始めた。

 そして、昨年、2022年に環境が一変する。原油などの海外産の資源価格高騰と円安の進行により、消費者物価上昇率は目標の「2%」を超えるようになった。ところが、これに賃金上昇が追いつかないことから、円安の背景にあると目される日銀の金融緩和政策(と海外中央銀行の政策金利引き上げの差)に対して批判が集まるようになり、黒田総裁を「悪い円安」の主犯と名指しするような論調も見られるようになった。

 一方、黒田総裁は現状の物価情勢について、主に海外の資源価格上昇の影響によるもので、賃金の上昇を伴う経済の好循環からマイルドな物価上昇が実現しているものではないので、金融緩和政策を維持することが適切だとの判断を示していて、金融緩和維持の姿勢は一貫している。

 次に、筆者の評価を述べる。

 先ず、黒田総裁が掲げた大規模な金融緩和は、大方針として適切であったし、必要であり、「やらないよりは、やった方が遙かに良かった」と総合評価したい。黒田氏以前の日銀の金融政策は緩和が不十分であったため、日本にデフレないしほぼゼロ・インフレが定着し、このことが経済停滞の大きな原因の一つになっていた。これを改めて、単なる政策金利の引き下げだけではなく、量的緩和の領域まで金融緩和を拡大して、一貫して金融緩和の姿勢を維持したことは大いにプラスだったと評価出来る。

 インフレ目標が短期間に望ましい形で実現出来なかった主な原因は、財政政策にあったと筆者は考えている。

 ある種の不文律として、日銀は財政政策の運営に口を出さない習慣があるが、財政政策が金融緩和の効果を大きく左右する状況にあったのだから、日銀からも財政に注文を付ける情報発信を行うべきだったのではないだろうか。黒田総裁体制でも、こうした議論がなされなかったことは、残念ながらマイナス評価の対象になる。

 また、いくつか繰り出した金融緩和政策の中には、手段として適切でなかったものが二つあった。一つは、ETF(上場型投資信託)の買い入れで、日銀が株式市場に介入することと民間企業の大株主になることは適切ではなかったのではないか。もう一つは、長期金利を、変動範囲を固定的に宣言して抑え込む「イールド・カーブ・コントロール」(略称「YCC」)に些か無理があったのではないかと思われる。長期金利を操作の対象にすることはあっていいかも知れないが、変動範囲を宣言するのは、政策を発動する当初は市場参加者へのメッセージとして有効に働くかも知れないが、金利の周辺環境が大きく変化した時に投機を呼び込むことになりやすい。また、そもそも長期金利(長期国債利回り)は半ば経済の体温に相当する基本的な指標であって、市場の変動に任せていいのではないか。

 後の二つの減点材料は、財政に対する働きかけが行われて奏功していれば必要のない政策だったのではなかろうか。

 黒田総裁時代の日銀を敢えて点数で評価すると、財政に対する働きかけが不十分だった点がマイナス15点、ETF買い入れとYCCがマイナス5点ずつで、75点としたいと思っている。昨今の黒田総裁に対する世評からすると、意外な高評価だと思う読者がおられるかも知れないが、黒田総裁の議論は正確であり、ブレない姿勢は大いに立派だと筆者は思っている。

金融政策で何が問題なのか?

 さて、日銀の金融政策を論じる場合に何が問題なのだろうか。例えば、「2%」のインフレ目標がなぜ適切とされているのだろうか。

 先ず、景気と雇用に対する調整は金融政策をもって行うことが、先進国の経済政策のスタンダードだ。この場合、インフレ率が低下してゼロに達してしまうと実質金利をマイナスにすることが出来ないので、金融政策の効果に限界が生じやすい。平均的にプラスのインフレ率がある経済の方が、金融政策の効果が発揮しやすい。また、経済取引全般に於ける商品やサービスの相対価格をスムーズに調整する上でもマイルドなインフレ状態がある方がいいし、年金や社会保障関係の給付や掛け金の調整にもマイルドなインフレ状態が好ましい。

 もちろん、インフレ率が高すぎたり変動が大きく急激であったりすることは、経済取引の効率性を損なうので避けた方がいい。

 2%という数字に絶対的な根拠があるわけではないが、安定的にプラスだけれども、高すぎないし、安定的に管理しやすいインフレ率はだいたいこのくらいではないかという大凡のコンセンサスが世界の多くの先進国にはある。その場合に、為替レートを安定させる上でも日本の同じくらいのインフレ率であることが望ましいと言う要素も加わる。

 景気を後押しして雇用を改善すること、さらにはインフレ率を上昇させるために中央銀行に出来ることは、第一に政策金利の引き下げであり、いわゆるマネー(現金と流動性のある預金)を民間経済に豊富に供給する金融緩和政策だが、ここで政策金利がゼロにまで達するような環境では、そもそも民間経済に資金需要が乏しいので、市中銀行から国債を買って民間銀行にマネーを供給しても、これが貸し出しの形で民間経済に回らずに、無利子であっても流動性が高く信用リスクの上で安心な日銀当座預金が準備預金として要求される水準以上に積み上がる形で滞留してしまう問題が起こる。

 大雑把には、日銀がマネーを供給しても、経済に資金需要がないので、そのマネーが民間経済に回らない状態が生じると考えていい。

 こうした状況下では、財政が、支出を増やしたり、減税や給付金で民間経済にお金を渡す形で、民間経済により多くのお金を回すことが可能になるので、「金融緩和が有効に機能するためには、財政の協力が必要だ」という状況が生じる。ところが、2014年と2019年に消費税率が引き上げられるなど、財政の金融政策に対する協力が不十分であったために、わが国ではなかなか「2%」のインフレ目標を達成することが出来なかった。

 政策金利がゼロまで達すると、金融政策がより効果的であるためには財政政策の協力が必要なのだ。「財政政策には大きな問題があった」と筆者は認識している。

 重要な原因が二つある場合に、一つの要因と結果だけを見て、注目した要因について判断を下すと間違えることがある。「金融緩和でインフレ目標が達成出来るはずだったのに、これが達成出来なかったのは、金融政策の失敗だった」と総括して、金融緩和を止めて金利引き上げに向かうと上手く行くのではないかと思うのは、おそらく不適切で愚かだ。財政政策の影響を考えるべきだ。

 安倍晋三氏が首相に就任してアベノミクスが始まった時に、金融緩和、積極財政、成長戦略、の三つの政策をセットにして「三本の矢」という比喩が用いられたが、そのうちの財政政策の矢は十分に飛ばなかったり、2014年に至っては逆向きに放たれたりしたことが、「2%」が長年未達だった大きな原因であろう。金融緩和自体は必要であり適切だった。同時期に利上げでもしていれば、ひどい状況を招来しただろう。

「期待」への働きかけの困難

 おそらく一種の不文律があるのだろうと推察されるが、財政について日銀が財務省や政治家に注文を付けることは、筆者の知る限りない。このことは、日銀の行動としても問題だったと筆者は考えるのだが、黒田総裁時代の日銀には、もう一つ悩ましい問題があった。それは、日銀が積極的に国民の「期待」(=予想)に働きかける政策を採ったことだ。

 つまり「日銀は2%のインフレを目指しており、それを達成することが出来るので、国民の皆さんは2%のインフレになるという期待を持って行動して下さい」という趣旨のメッセージを、有名な日銀は黒田総裁の就任会見以来強く発し続けた。

 長年黒田総裁の記者会見の定番の台詞だった「必要があれば躊躇なく追加の緩和策を実施する」はこの文脈の下で発せられたと考えることが出来る。

 しかし、事後的に見て2%の目標は未達なのだから「必要はあった」はずだが、日銀の政策だけではこれを実現することは出来なかった。

 しかし、「国民の期待に対する働きかけ」の効果を考えると、日銀は自ら「日銀の力だけでは2%の達成は難しいかも知れません」と情報発信することを躊躇して、「日銀の政策だけでインフレ目標の実現は十分可能だ」という態度をとり続ける必要があった。

 そして、「追加の緩和策」があり得ることを時々は示す必要があったために、前述のETF買い入れやイールド・カーブ・コントロールのような、財政政策の協力があればやらない方が良かった政策までメニューに載せてしまったのだと筆者は解釈している。

 次期日銀総裁に最も必要だと筆者が思う条件は、「財政政策及び財務省に必要な意見を遠慮なく且つおおっぴらに言うことが出来る人」ということになる。

 現在世間で名前が挙がっている人の中に、この条件を満たす人はいないように思われるのだが、この予想をいい意味で裏切ってくれるなら、極端な話だが、誰が総裁になっても大歓迎したい。

投資家は何に注目するべきか

 予定では、副総裁2名の任期が3月に切れて、総裁の任期が4月に切れるのだが、総裁を前提とせずに副総裁を選ぶことは不自然なので、2月ないし、早ければ1月中にも、正副総裁3名が指名されることになるだろう。

 投資家は、先ずはその3名の人選から、日銀の向こう5年に亘る政策を読み解こうとするはずだ。

 現時点では、おそらく岸田首相は、現在の黒田総裁のようなレベルで金融緩和政策に積極的な人物を総裁には選ばずに、日銀の近い将来の政策転換を予想させる人事を行いそうだ。

 但し、この際に、政策変更へのスピードを予測する上で、副総裁2名のうちの一方に、いわゆるリフレ派(金融緩和積極論者)と目されるような人物を選ぶか否かに注目すべきだろう。リフレ派の人選があれば、それ自体がサプライズと受け止められるだろうから、現在の金融緩和政策からの転換スピードが大方が予想しているものよりも遅くなることを予想させるメッセージになると思われる。

 副総裁のうち1名は、日銀あるいは財務省の出身者ではない学者が選ばれることになると予想するが、この人物の過去10数年程度の書き物や発言などの情報発信を分析することによって、政権が意図する金融政策転換のスピードを推し量ることが出来るのではないかと思われる。人事が発表されると誰かがやるだろうが、政権の意図と、日銀の新体制が目指す政策像は、この分析から大体分かるはずだ。

 また、新メンバーが選ばれた際のコメントは、株価が急落して「○○ショック」と言われるような事態を避けるために、現在の政策の継続を実際に意図している以上に強調しつつ、慎重になされるだろう。指名を受けてのコメントはかなりつまらないものになるはずだ。

 しかし、人間はなかなか100%完璧な嘘や演技が出来るものではない。将来の政策転換に積極的な意見を持っている人物の場合、例えば、「金融緩和政策を転換するとしたら、その条件は何か?」といった質問を受けた際に、解釈のしようによっては比較的早く満たされてもおかしくない条件を答える可能性が大きい。

 新総裁が実際に就任してからのコメントにも同様の注目は必要だが、早い場合は指名された時のコメントから政策転換への動きとタイミングを察知することが出来る可能性がある。株式や外国為替のトレーディングに熱心な向きは、想像力を働かせながら大いに注目するといい。

 イールド・カーブ・コントロールの範囲の緩和(±0.25%→±0.5%)の発表では、為替レートはざっと20円円高に振れた(約150円→約130円)。金融緩和を大看板としたアベノミクスの下で株価が大きく上昇したことを思うと、日銀の金融政策の転換は株価に対する影響も大きいはずだ。その時期、規模、スピードなどを予測することは、特に短期的なトレードのゲームに参加している投資家にとっては大いに重要なファクターであるはずだ。

 また、政府と日銀が交わす政策の合意事項である、いわゆる「アコード」も文章の見直しの可能性が取り沙汰されている。市場への影響の可能性を考えると、新総裁選任の際に見直しを発表するのではなく、時間差を設けて様子を見る方が政治家・官僚・日銀の何れにとっても賢いと思われるが、これを急ぐようであれば、政権は金融政策の見直しを急いでいると見ていいだろうから、この点にも注目したい。

 尚、金融政策と財政政策は目指すところが一致して両者に一貫性があることが望ましいので、アコードの締結によって両者を関連付けることは原則論として良いことだ。但し、現在のアコードは、専ら日銀の行動を政府の目的と整合させるために機能しているように思われるのだが、前述のように、現在の日本の状況では財政政策をマクロ経済の政策手段として適切にコントロールすることが重要だ。新総裁の体制が発足することでしばらく日銀に注目が集まるかも知れないが、同様或いはそれ以上に、財政政策と財務省を適切にコントロールすることが重要だ。

 国民にとっても、投資家にとっても、「財政には大きな問題がある」という認識を持つことが大事だし、日銀の新総裁には専門家としての矜持をもって財務省に対しても堂々と意見を言うことを期待したい。