ニューロ・ファイナンス

ニューロ・エコノミクス(神経経済学)、ニューロ(神経)ファイナンスと呼ばれる分野がある。それぞれ、経済学やファイナンス(金融論)と脳神経科学の研究を関連づけた研究分野だ。この分野は、2000年を過ぎた頃から、MRIやfMRIの発達で脳の非侵襲的研究が可能になったことに後押しされて活発化してきた。最近、投資に関する論文を読むと、脳の活動領域を示す画像の写真が載っていることが時々ある。

神経ファイナンス以前には、2002年にダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞したことで有名になった行動ファイナンスという研究分野があった。こちらは、認知心理学の研究とファイナンスの研究を関連づけたものだが、人間(もちろん「投資家」を含む)の各種の「バイアス」(bias;判断の非合理的な歪み)を指摘した。行動ファイナンスは、研究にあたっての数学的負担が軽いこともあってか、近年、日本でもよく紹介されるようになった。

行動ファイナンスのバイアスは、「人間には、こんな非合理的な判断を下す傾向がある」というだけで、(1)それがなぜ起こるのかと、(2)それは学習等により修正可能なものなのか、という点が明らかでない弱点があった。

神経ファイナンスは、必ずしもすべてが行動ファイナンスに包摂される研究とは限らないが、脳機能の研究を通じて、これらの点を明らかにしていこうとする点で行動ファイナンスと関連している。

投資家と脳機能

ジェイソン・ツヴァイクの近著『あなたのお金と投資脳の秘密』(堀内久仁子訳、日本経済新聞出版社)は、サブタイトルに「神経経済学入門」とあるように、行動ファイナンスで指摘される投資家が陥りやすいバイアスを紹介して、これを脳の機能と関連づけて説明している点で、ニューロ・ファイナンスの入門書になっている。

この本は、行動ファイナンス本の読者にはお馴染みの事例も含めて、羅列的に数多くの「投資家の間違い」の事例を紹介しているが、目次を見ると、おおむね行動ファイナンスの研究項目(特にバイアス)に沿って説明されている。

著者は、投資に関わる脳を、機能の面から、意識的に考えるというよりも感情や無意識を通じて行動を喚起しがちな「反射脳」と、パターンを探ったり経験を言語化したり計算したりといった思考機能を担う「熟考脳」に二分して説明している。

容易に推察できようが、反射脳は、その短絡的な行動喚起を通じて、投資家の間違いの多くに関わっている。

たまたま経験した大儲けが「どんなに気持ちのいいものか知ってしまった」脳がなかなかギャンブル的な行動から抜けられなくなる依存症や、そこまで行かなくとも、脳が「五分五分に近い賭」のスリルに興奮しやすいことや、気持ちのいい経験が選択的に記憶されやすく投資家の自信過剰を後押しすることなどは、主に、脳の下部に近いいくつかの器官が担当する機能に関わる「反射脳」が悪さをすることによって起こりやすくなっている。

他方、熟考脳の働きも必ずしも完璧なものではなく、ランダムな配列の中に「トレンド」を見いだしたと勘違いするような過剰な(同時に誤った)パターン認識機能によって、チャート分析の有効性を信じる投資家を作り出すような害をなすことがある。

このパターンの認識機能は強力で、少ないサンプル数でも統計的に有意な法則性を感じて、たとえば、利益予想の上方修正が3回続けて起こると「4回目も起こるだろう」と推測するような、予想のバイアスの原因となるようだ。

また、こうしたパターン認識力に、刺激に対する依存性や自信過剰が加味されると、次のような「過剰な賭」が起こる。

たとえば、次に光る光の色を当てる実験で、緑緑緑赤緑緑緑赤緑緑緑緑・・・のように緑が80%で赤が20%のような光の登場パターンを見つけると、常に緑に賭けると80%の的中が期待できるのに、多くの人間は、20%の赤の登場を当てようとして自分の賭の5回のうち4回しか緑を選ばないらしい。この結果、的中率は80%ではなく、68%程度まで下がってしまうという(80%×0.8+20%×0.2=68%、ということか)。

これは、運用の世界では、基本的には上げ相場に賭けていて株式を買っている株式ファンドの運用者が、ときたま起こる下げ相場を上手く避けようとしてキャッシュ・ポジションを時々上げるために、マーケットについていけなくなることが多いことと対応しているように思われる。

同様の実験を行った場合、鳩やネズミの場合、常に緑に賭けて80%の的中を得ることが多いらしいので、パターンの認識と賭の能力において、人間のファンドマネージャーは、鳩やネズミ以下の能力なのかも知れない。

賢い投資家は、アセットアロケーションの調整も含めて、自分が行おうとしている売買が有効である可能性とその根拠の信憑性に対して敏感且つ謙虚でなければならない。タイミングを当てて上手くやろうとする売買は、均してみると、単なる手数料の無駄や、さらには不適切なエクスポージャーに伴う機会損失に終わっていることが多い。

しかも、よほど周到に記録を取って反省しないと、「自分は上手くできる」と思い込み勝ちだったり、さらには事実に反して「自分は上手くやってきた」と記憶してしまい勝ちだったりするのが、人間の脳の困った性質だ。

学習による修正可能性とゴールの在処

先の本の著者ジェイソン・ツヴァイクは、投資分野に詳しい著名な金融コラムニストなので、投資家である読者が自分の脳のおかげで間違いを犯さないための具体的な方法をさまざまに提案している。

彼の述べる方針の中で同意できるのは、「コントロールできるものを、コントロール」することに集中しようということだ。

たとえば、投資信託の選択に当たって、ファイナンシャル・アドバイザーは「経費」を八番目(!)に重要な経費としていると述べている(前掲書p43)。これは、一見投資の先進国であるアメリカにして、フィナンシャル・アドバイザーが所詮セールスの手先でしかないことを語る絶望的な事実だ。しかし、彼は、過去の運用成果や、リスク、ファンドの運用期間等の他の要素について、「これらの要素のどれも、最高のリターンを稼ぐファンドを見極めるうえでは役に立たない。投資信託の将来成果に対する唯一最も重要な要素は、相対的に固定的で小さな数字 手数料と経費であることが、何十もの綿密な調査で証明されてきた」と語り、投資家の行動を改善することを諦めてはいない。

彼は、本の「付録」にあるように、投資をルール化したり、投資の内容を投資家が認識したりするための「チェック・リスト」の活用を提案したりしているが、本で紹介する脳の研究自体は、投資家が学習やセルフ・チェックによって行動を修正することがどの程度可能なことなのかについて十分語っているようには思えない。

この点は、金融市場の規制や金融商品販売のルールの設定にあたって、重要な問題だ。

たとえば、投資信託の投資家の少なからぬ一部分が「分配金」のみに対する過剰な注視から脱し得ないのだとすれば、現在日本で流行っているような高金利通貨を使った通貨選択型ファンドのような投資家にとって得でない商品は、販売自体を規制すべきだろう。「ニューロ(脳神経)」の誤認傾向を利用するようなあざといマーケティングに対しては、上品な啓蒙だけでは不十分なのかも知れない。

また、学習の可能性の有無と共に、ニューロ・ファイナンスを弁えた投資家が実際にどう行動するのがベストなのかについては、行動ファイナンス以前の伝統的なファイナンスによる検討が改めて必要だ。

お金の問題に関しては、目的と前提を決めると「最適」を求めることができるし、そこからの距離(自分がどれだけ「ダメ投資家」かの程度)を測ることができる。脳は自分が損をすること、負けることが嫌いな生き物のようなので、「適切な目的」を設定すれば、投資家が自分の行動を修正できる可能性はありそうだ。

いずれにせよ、投資家は、過信せず同時に甘やかさずに、自分の脳と上手に付き合っていかなければならない。