※本記事は2011年9月16日に公開したものです。

推薦図書の責任を取る

 筆者は、先般ある単行本書籍の取材を受けた時に、「投資家に一読を勧める文献を三冊挙げてください」と言われて、投資のスタンダードなテキストとチャールズ・エリス『敗者のゲーム』(鹿毛雄二訳、日本経済新聞出版)に加えて、ジョン・メイナード・ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』(間宮陽介訳、岩波文庫)を挙げた(※ 書籍はネット証券四社による投資信託の「資産倍増プロジェクト」をテーマとしたもので、ダイヤモンド社から刊行予定です。楽しみにされて下さい)。

 実は、投資のテキストを挙げた理由は「長期投資でリスクが縮小する(だから、より大きなリスクを取ることができる)」といった世間によくある誤解にうんざりしていたからで、エリスの本を挙げたのは「そもそも運用を投信に任せる投資家が、『良いアクティブファンド』を事前に選ぶことができると思うばかばかしさに早く気づいて欲しい」という理由からだった。こう本音を書くと、「ケインズは、読者への意地悪のつもりで挙げたのではないか」と思う方がいてもおかしくないが、こちらは、「本当に面白いから」挙げたものである。

 ケインズの通称「一般理論」は、掛け値なしに有名な経済学の名著だが、難解で読み辛いことでも有名な本だ。推薦の弁には、「長期期待について述べた第12章を中心に読んでみてほしい」と付け加えたが、それだけでは少し不親切な気がするので、推薦の責任を取って、その「ケインズの第12章」の読み所をご紹介する。

「一般理論」の第12章だけを読んで下さい

 何はともあれ、「一般理論」の第12章を読んでみて欲しい。翻訳の岩波文庫版では202ページから228ページまでの26ページほどの分量だ(最後のページは1行だけなので、計算から除いた)。

 ここで、経済学部の学生を除く一般の投資家読者の方々には(経済学部の卒業生も含めて)、くれぐれも「第12章から読む」ことをお勧めする。

 先にも述べたように、「一般理論」は読みにくい。特に、前半は、古典派経済学との比較や概念の定義などが議論の本筋のあちこちに挿入されていて、話の筋を追うのに苦労する。

「一般理論」は前半の比較的早い部分で、貯蓄=投資となるように生産・所得の水準がきまるとする有名な有効需要の原理が説明され、消費(特に人が所得の中からいくら消費するかという傾向である「消費性向」)を検討し、次に投資を検討する。

 第12章は、第11章で投資(実物投資)の規模が一方では投資の限界効率に依存して決まる(原書では「資本の限界効率」と書かれているが、「投資の限界効率」と書くべきだ、と後に指摘されている。他方では利子率に依存する)と論じた後に、資産の期待収益を決定する諸要因を詳しく検討するとして、置かれている章だ。13章は、利子率の決定要因を扱う。

 ここまで書くと、どうにも難しそうだが、第12章の場合、難しいのはここまでだ。投資水準の決定が、現在分かっている割合確かに見える事実と、企業家の将来にわたる予想と心理状態(これらを一括して「長期期待の状態」と呼ぶ)に依存するとして、後者について詳しく論じるのだが、続く記述は「本書の大部分とは異なる抽象水準にある」として、ケインズは「市場と事業心理の実際の観察にもとづくものでなければならない」と述べる所説を自由に語り始める。以下の記述には、「一般理論」特有の難渋さがないし、他の章の内容とほぼ独立して読むことができる。

 なお、経済学者が使う「長期」という言葉は、ファンドマネージャーの言う「長期投資」と同じくらい怪しい概念であることが多いが、ケインズの場合は、資本装備が変化しない状況での議論が「短期」、資本が変化する状況を扱うのが「長期」だとはっきりしている。

事業家の心理と「アニマル・スピリット」

 長期を前提に投資を考えるには、企業家がどのように投資の意思決定を行っているかを把握しなければならない。

 ケインズは、期待収益を予測するにあたって依拠しなければならない知識の根拠は「極度にあやふや」だと半ば驚きながら宣言する。

「数年先の投資収益を左右する要因についてわれわれがもっている知識はふつうはごくわずかであり、たいていの場合、それは無視できるほどのものである」(P205、前掲書。以下同様)、ビルディングであっても、大西洋を渡る定期船であっても、10年後の収益を予想するための知識の基礎はごくわずかで、時には皆無であり、「10年先はおろか、5年先でさえ、そうなのである」とケインズは自分の観察を述べる。これはプロが行う投資分析の現実に照らしても、もっともな現実把握だ。

 投資は決して期待利潤の綿密な計算に基づいて行われるものではなく、「血気盛んで、建設的衝動に駆られた人間」の意欲によって行われるということに加えて、投資の平均的成果は「たとえ進歩と繁栄の時期においてさえ、人々を投資に駆り立てた希望を挫くものであったと思われる、とも語っている。

 つまり、ケインズから見て、投資(事業における実物投資)とは純粋な計算から見ると間尺に合う代物ではないが、事業者の「血気」によって行われているものだ、ということになる。ケインズの体系にあっては投資の有効水準が生産水準、ひいては国民の所得も雇用も決めるのだから、この現実は由々しき事態だといってもいいだろう。

 この「血気」については、12章の後の方でも触れられていて(P223~P224)、「われわれの積極的活動の大部分は、道徳的なものであれ、快楽的なものであれ、あるいは経済的なものであれ、とにかく数学的期待値のごときに依存するよりも、むしろおのずと湧きあがる楽観に左右されるという事実に起因する不安定性がある」(P223)、「その決意のおそらく大部分は、ひとえに血気(アニマル・スピリッツ。訳書ではルビ)と呼ばれる、不活動よりは活動に駆り立てる人間本来の衝動の結果として行われる」(P223~P224)と述べられている。

 ケインズは行動ファイナンスでいうところの人間の「オーバー・コンフィデンス」の傾向について、そのいい加減さの影響と共に、重要性も同時に認識していた。

「もし血気が衰え、人間本来の楽観が萎えしぼんで、数学的期待値に頼るほかわれわれに途がないとしたら、企業活動は色あせ、やがて死滅してしまうだろう」(P224)と彼はいう。

 続いて「とはいえ、往事の利潤への[過度の]期待がいわれのないものであったと同様に、損失への[過度の]怖れも合理的な根拠を欠いているのであるが」と、この「血気(アニマル・スピリッツ)」の振れ幅の大きさも指摘している。

 この辺りの人間理解のリアリティはケインズの大きな魅力の一つだ。

行動ファイナンス学者、ケインズ

 さて、長期の事業計画に基づく投資の収益予測は極めてあやふやものなのだというのがケインズの意見なのだが、実際に投資に影響を与えている投資家は、証券市場の存在によって、先のことまで考えずに投資をすることができるし、現にそうしているとケインズは語る。

 株式市場のような市場で投資を流動化できるようになることで、個人は投資を改訂する機会を頻繁に持つことができる。このことは、古い投資家の投資物件を個人間で容易に移転することができるようにするが、同時に、現在の投資率に大きな影響を与えることが必至だ、とケインズは心配する。

 ここから十数ページほど、ケインズは、なかなか先進的なファイナンス学者になる。ケインズが株式投資に熱心な実践する投資家(それも、大相場を張るタイプの投資家・投機家)であったことはよく知られているが、彼の理論には、投資の経験が生きている。

 ケインズは、市場参加者の予想が「現在の事態は変化を期待することさらの理由がないかぎり、これから先どこまでも、このまま続いていくと想定する」ものだと述べている。但し、それは、人が本当にそう信じているのではなく、そのようなこと(変化しないこと)は起こらないと分かっているが、そうするのだ、と注意する。同時に、こうした慣習的な計算方法は、「われわれの事業に相当程度の連続性と安定性」をもたらしている。

「われわれは実際には、市場の現在の評価は、それがどのような経緯でそうなったにせよ、投資収益に影響を及ぼす事実についての手持ちの知識との関係で見れば一意に正しく、そしてこの知識が変化する場合にかぎり、評価もまたそれに応じて変化する、と想定している」(P210)これがケインズの市場観の一方の基礎だが、この理解には、ケインズから見て30年ほど後に隆盛を見た「市場の効率性」の議論を卒業して、その先を考えて行こうとする行動ファイナンス学者の視線を感じる。

 後年の行動ファイナンスの学者達が、効率的市場仮説を克服するにあたっては、効率的市場の例外事象としてのアノマリーの研究など、かなりの回り道を経ているが、ケインズは、人間の観察から出発した分、「期待」が「正しい情報」および「正しい株価」と直結するような非現実的な世界観には嵌まらなかった。

 しかし、「慣習の不安定性」を高めるいくつかの要因があることで、「十分の投資を確保するという現代の問題」(P211)も影響を受けるし、市場の不安定がもたらされているというのがケインズの見立てである。彼は次のような要因を指摘する。

 まず、経営に関与せず当該事業に関わりのない投資家・株主が増えることで、投資物件を評価する際に依拠する「真の知識」の割合が下がっていて、投資物件の利得に影響する少々の変動(たとえば製氷会社が夏場に儲かるといった長期的でない現象)が過大評価されるし、大衆の意見は楽観と悲観の間で大きく揺れ動く。

 加えて、彼が多少の憤りと共に指摘するのは、「玄人筋の投資家や投機家の精力と技能」が「投資対象のその耐用期間全体にわたる期待収益に関して、すぐれた長期期待を形成することに意を用いるのではなく、たいていの場合は、評価の慣習的基礎の変化を、一般大衆にわずかばかり先んじて予測」することに投入されているに過ぎないということだ。

 プロも含めて市場の参加者が、ファンダメンタル・バリューの発見に注力するのではなく、投資家の心理を通じて短期的な株価に影響を与える目先の変化要因の予測に振り回されることを、ケインズは指摘する。

「真正な長期期待に依拠する投資は今日ではほとんど不可能なほどの難事となっている。そうしようと試みる者は、群衆がいかにふるまうかについて群衆以上に想像をたくましくする人よりは、もっと労苦の多い日々を送らねばならず、降りかかる危険もずっと大きい」(P216)とも言っている。

 ケインズは、投資家の刹那主義を嘆いているが、それに逆らうことが簡単ではないことも同時に理解していた。

 また、こうした刹那主義の原因を「人間というものは結果がすぐに表れることを望むものである。手っ取り早い金儲けにことに強い興味を示し、遠い先に得られる利益を平均的な人間は非常な高率で割り引く」(P217)とも述べており、後年行動ファイナンスで研究された「時間非整合」(あるいは「双曲割引」)の問題を直感的に把握していたように思える。

 彼は、この傾向が市場参加者の「頭脳が生来、凡庸だからではない」(P213)のであり、(ケインズから見ると)過度に流動的である市場の構造のせいだという。

 ケインズは、この章の終わり近くでまたこの問題に戻り、投資家の関心を目先の利得から、長期的な投資価値に向けるために、証券に市場において取引税を掛けることも一案だと述べている。このアイデアは、後年になっても、たとえば激しい国際資本移動を手なづけるために、通称「トービン・タックス」(金融取引税)を導入してはどうかといった形で時々復活してくる(筆者は不賛成だが)。

 ケインズによると、「熟達した投資の社会的目的」は、「他人を出し抜く」ことではなく、「われわれの未来を覆っている時間と無知の闇を打ち負かすこと」でなければならない(P214)。

 こうした議論の途中に、「それぞれの参加者は自分が一番美しいと思う顔を選ぶのではなく、他の参加者の心を最も捉えそうだと思われる顔を選ばなければならない」(P215)ゲームとして有名な新聞紙上の「美人コンテスト」の喩えも出てくる。

また、「投資資金の運用者」の行動について、「世俗の知恵の教えるところでは、型を破って成功するよりも、型どおりのことを行って失敗した方がまだしも評判を失うことが少ないのである」(P218)と皮肉を述べている箇所もある。

「投機」と「企業」、およびケインズの「結論」

 ケインズは、「投機という言葉を市場心理を予測する活動に、企業という言葉を資産の全耐用期間にわたる期待収益を予測する活動に」充てている(P219)。

 彼の分類は、考え方として筆者の流儀での「投資」と「投機」の分類に正確に対応するものではないが、実際の活動を分類する上では、「企業」の活動への資金提供となる「投資」と、市場心理を予測するゼロサムゲームである「投機」との区別に対応しているように思える。

 ここでのケインズの懸念は、先にも述べたように、資本市場が組織化されるにつれて、「企業」よりも「投機」が優勢になるのではないか、ということだ。「一国の資本の発展が賭博場(カジノ)での賭け事の副産物になってしまったら、なにもかも始末に負えなくなってしまうだろう」という心配がその内容だ。

 ケインズの見るところ「社会的に見て有益な投資政策が最も多くの利潤を稼ぐ投資政策であることを示す明確な証拠は経験上何一存在しない」(P215)。われわれには「他人を出し抜く」ために必要な以上の知力が必要だが、それが金銭的利益に結びつく保証はない(P217)とも言う。

 結局、ケインズは、資本市場のパフォーマンスに関して「懐疑的」になり、「利子率に影響を及ぼすことを目的とした金融政策がただそれだけで成功を収めうるとは考えていない。これからは、長期的視野に立ち社会の一般的利益を基礎にして資本財の限界効率を計算することのできる国家こそが、投資を直接組織化するのに、ますます大きな責任を負う、と私は見ている」と、本来あるべき「企業」の活動への希望を国家に棚上げしてしまっている。このケインズの結論に対する評価は様々だろう。

 筆者は、狭義の金融政策だけで経済の問題が解決できない状況があることについてケインズに同意するが、国家が「社会の一般的利益を基礎にして資本財の限界効率を計算する」ことなどできないと思うので、後半部分には賛成できない。読者はいかがだろうか?

 結論への賛否は別として、「一般理論」の第12章はともかく面白い。ぜひ読んでみて頂きたい。

【コメント】

 ケインズの有名な「一般理論」の第12章が投資家にとって大変面白い内容であることは、本文に述べたとおりだ。2011年の記事掲載から10年経っているが、その点には現在も全く疑問はない。ともかく読んでみて欲しい。そして、本文にもあるとおり、本を最初から読むのではなく「12章から」読んで欲しい(経済学部の学生なら、たぶんその理由が分かるだろう)。

 さて、重要な情報がある。2011年の記事では、岩波文庫版の間宮陽介訳の翻訳を紹介したが、その翌年、2012年に講談社学術文庫から山形浩生訳の「雇用、利子、お金の一般理論」が出た。こちらの方が読みやすいので、これから読まれる方には、この翻訳をお勧めする。215ページから、236ページまでの22ページだ。

 夏休みの読書に、是非お勧めする。(2021年7月19日 山崎元)