諺「時は金なり」

「時は金なり」は古今東西の諺(ことわざ)の中でも、特に有名でかつ有用なものの一つだろう。一般には、時間はお金のように大切なので無駄に費やしてはならない、という意味に理解されている。

 人にとって時間が大切であることに異議はない。次に考えるべきことは、どのようにすると時間を上手く扱うことができるかだろう。

 ここでお金が登場するのが、諺の意味の深いところだ。「自分の時間の値段」を意識することで、われわれは時間とお金についてよりよい状況を作る手掛かりを得ることができる。

 例えば、1時間の価値が5,000円だと考える人がいるとしよう。年収が1,000万円で、一年に250日働き、一日に8時間働くとすると、この人は労働一時間当たり5,000円稼いでいる計算だ。

 この人が、通勤に30分かけていたところ、1時間掛かる場所に引っ越すとする。月に20日通勤すると、通勤時間が月間20時間増えるから、時間の損失が月額10万円発生する。同条件の家なら、家賃が10万円以上安くはないと、この引っ越しは割に合わない、という計算になる。

 通勤に伴う損得のあれこれについては、近年普及しつつある「テレワーク」による在宅勤務を経験してみて、思うところのある読者が多いのではないだろうか。

 実際には、通勤時間が長いことに伴う不便や、満員電車等による通勤の疲労やストレス、通勤時間が睡眠時間を圧迫するならそのことによる能率の低下なども考える必要がある。遠距離通勤で、住環境を改善できるプラス効果なども考慮すべきだが、筆者個人は、どちらかというと「職住接近主義」だ。

 特に、仕事を覚え、時には仕事に没頭すべき若いビジネスパーソンには、職住接近による時間の有効利用の効用を強調したい。

 職住接近の話に思わず力が入ったが、自分の「時間の値段」を考えることで、さまざまな意思決定の選択肢を評価できることは強調したい。

 読書や映画鑑賞の本当のコスト評価とか、学校に行くか就職して働くかという種類の人生の選択肢の評価に応用できる場合がある。読書や映画鑑賞は、自分の時間の値段を考えると経済価値的には高くつく行為だし、進路選択にあっては「1年の値段」を考える必要がある。人生の時間は有限だ。単に「やらなければ後悔するから」といった薄弱な根拠で人生を決めるのは愚かだ。

 なお、その時々に「自分の時間の値段」を考えるべきだが、ビジネスパーソンの場合、自分の「時給」を自分の時間の値段だと考えるのは、少々志が低い。会社勤めであれば、会社は、あなたが会社のために獲得した付加価値の一部を報酬として支払っている。あなたの時間の本当の価値は、「時給」よりも高いはずなのだ。

 時間の採算感覚の重要性はいくら強調しても強調し過ぎということはないだろう。「時は金なり」は大変役に立つ言葉だ。

 しかし、この金言に一言だけ物申しておこう。

 実は、時間は、お金よりも大切なものなのではないだろうか。いくらお金があっても、人生の時間が無いと有効に使えない。むしろ、自分の時間を尺度として、お金やもろもろの選択肢を評価するのが正しい考え方だろう。

 例えば、お金を有効に使うことで、自分の時間を生み出すことができる場面が多々ある。「お金で時間を買う」感覚が時には大切だ。お金を有効に使うことで時間を稼ぐのが、むしろ人間本来の姿だろう。

 ただし、時間よりもお金のほうが価値の実感を伴って計算しやすい場合が多かろう。最終的には、人生の時間を効率的に扱う手段として「自分の時間の値段」に対して常に意識的であることが有効だ。

投資は「時間」と共に

 投資家にとって時間とは何だろうか。おそらく、三つの重要な意味がある。(1)リターンの源泉、(2)効率測定の基準、(3)リスクの源泉、だ。

 投資家にとっては、投資する「時間」がなければ、リターンの獲得がままならない。投資とは、自分のお金を資本として提供して経済活動に参加させて、資本が生んだリターンの一部を受け取る行為だ。お金が働くわけだが、十分な価値を生むためには、働く時間を十分与えなければならない。時間がなければ、投資でリターンを獲得することはできない。

 もう少し理屈っぽい話を許していただけるとすると、「投資とはリスクプレミアムのコレクション」なのだが、リスクプレミアムはリスクを負担することに伴う追加的な利回りとして「時間とともに」実現する性質を持つ。

「投資家にとって、時間こそが主な資源だ」。
こう言うと、高齢で余命が短い方はがっかりされるかもしれないが、投資は、自分の代だけで終わる行為ではない。相続人と一緒に、そして将来は相続人に託して資産を増やすといい。

 世間のマネー本を見ると、「高齢になったら、投資のリスクを減らしましょう」といった、投資を一人一代限りの「自分だけの」ものと捉えた近視眼的で「冷たい」アドバイスが少なくない。社会全体として見ても、高齢者がリスクを減らすことに加えて、相続が現金で行われて、その後になかなか再投資されないことは「もったいない」ことだ。

 長期投資に理屈や計算を超えた神秘的な素晴らしさがあるわけではないが、「時間」は投資が有効であるための不可欠な原材料だ。

 資本を提供する行為に時間が必要なことに比べると副次的であるかもしれないが、投資の効率が時間を基準とする「利回り」で評価されることも投資家にとっては重要だろう。

 運用対象として、金融商品Aと金融商品Bのどちらがいいのかを評価するためには、共通で一定の時間の下にどれだけのリターンを、どの程度のリスクの下で生むと期待されるのか、という比較が基本になる。

 預金の利息も、債券の利回りも、株式のリターンも、「時間当たり」という共通の基準がないと計測も比較もできない。国のGDP(国内総生産)成長率にしても、企業の収益や増益率などの指標も「時間」の概念なしには成立しない。われわれの人生が、時間とともに成り立っているからなのだろう。

 さて、投資家にとって時間は味方のはずなのだが、それだけではないのが時間の奥の深いところだ。時間の経過に伴って、投資の結果はより大きな不確実性の影響を受ける。

 投資が、傾向として時間と共にリターンを生むものなのだとしても、たまたま短期間で大きなリターンが生まれた場合、同じリターンをより長い期間で獲得するよりも効率がいいし、何よりも、時間の経過とともに生じる不確実性と付き合わなくてすむことがありがたい。

 それが難しいのだとしても、投資の収益は同じ大きさならより短期間で獲得できる方が心配も無いし効率もいい。

 結局、人は投資にあって、時間の経過とともに、期待収益を大きくする一方で、不確実性がより大きくなっている。一方的に「うまい話」はない。期待収益と不確実性のバランスを考えて「有利だ」と思う人が、自分の許容できる範囲の中で投資のリスクを取るといい、という以上のことは言えない。

 もちろん、全ては人生の時間の中でのあれこれだ。「自分の時間の値段」を意識しつつ何よりも大切な「時間」を有効に活かしてほしい。