ハワード・マークス氏の述懐

 先日、オーク・ツリー・キャピタル・マネジメント社のハワード・マークス氏が顧客に宛てて書いた「投資とギャンブルの本質」と題するメモを読む機会があった。ハワード・マークス氏は「投資で一番大切な20の教え」(日本経済新聞出版社)などの著書で知られる、投資分野では当代有数の著述家だ。

 投資とギャンブルとの共通点を考察した文章で、例えば、アクティブ運用には、見えない情報、運、技能のすべてが介在する点で、例えばポーカーやブラックジャックのようなゲームに似た点があると論じ、ギャンブルとしてこうしたゲームを嗜むことの効用を説く。

 同氏は、自ら各種のギャンブルに参加し、自分の子供にもゲームを教えたことを自賛する。メモの内容は興味深く、筆者にとっては、同時に多くの点で同意できるものだった。

 実は、筆者は、最初の著作でファンドマネージャー向けの教科書として執筆した「ファンドマネジメント」(きんざい、1995年刊)の中で、ゲームとしてポートフォリオ運用を捉える視点を強調した。

 筆者も、また読者にギャンブルを「嗜む」ことをお勧めしたい。「嗜む」というやや改まった言葉を使うのは、ギャンブルを無制限に楽しむのでもなく、ギャンブルに人生の勝負をかけるのでもなく、コントロールされた状態でギャンブルに参加してほしいからだ。

投資と投機・ギャンブル

 筆者は、日頃、「投資」と「投機」を区別して扱い、長期的な資産形成には「投資」の方が向いていると述べることが多い。

 株式・債券・不動産などに資金を投じる「投資」は、経済活動への参加であり、市場で価格が形成される際に「リスク・プレミアム」(リスクを負担することを補償する追加的なリターンのこと)を織り込まれる傾向が期待できることが理由だ。

 他方、FX(外国為替証拠金取引)や商品相場などの取引は、ゼロ・サムゲーム的なギャンブルの構造になっているので、リスクを負担しても追加的なリターンを期待しにくい。従って、これらは資産形成に不向きだという理屈だ。筆者は、こうした取引のリスクを「投機のリスク」と呼んで、「投資のリスク」と区別している。

 この文脈からすると、筆者が、「投機のリスク」であり、しかももう一つ筆者が敵視する手数料を取られる行為でもあるギャンブル・ゲームを勧めることに違和感を持たれる読者がいらっしゃるかも知れない。

 もちろん、筆者の言う「投機」が儲けにくいものであることは、ゲームの種類を変えても同じであり、ギャンブルを資産形成の手段としてお勧めしたいのではない。投資をより深く理解するための参考と、より上手く投資を行うためのトレーニング手段の一つとして、あえて言うなら、教養の一環としてギャンブルを「嗜む」のだ。

ギャンブルと投資の近似点

 ただし、ギャンブルなら何でもいいという訳ではない。ハワード・マークス氏の言うように、情報・運・技能のいずれも絡むゲームでなければならない。簡単に言うと、頭を使う甲斐(かい)のあるゲームでなければならない。そうしたゲームであれば、たいてい何らかの点で投資と接点がある。

 例えば、プレイヤー同士が対等に戦うポーカーのようなカードゲームは、投資家どうしがポートフォリオの運用成績を競うファンドマネジメントと構造がよく似ている。プレイしている人々とその行動全体をゲームとして捉える思考習慣があると、「ライバルの平均を持つ運用」が競争上有利な戦略であることが分かるだろう。

 アクティブ運用に対してインデックス運用が有利なのは、よく学者が言うように「市場が効率的だから」ではなく、「ゲームの戦略として有利だから」ということがゲーム的思考を通じて分かる。

 また、多くのカジノゲームでは、親やハウス(カジノなどギャンブルの主催者側のこと)が取る「テラ銭」(ギャンブルの手数料)がいかに重い負担になるかを実感するが、この実感は、株式投資の戦略を考える上で参考になるし、FXのような一見投資に近い別種のギャンブルが儲かりにくいことの洞察にもつながる。

 また、馬券の種類にもよるがテラ銭の重さは致命的だが(おおむね25%がJRAによって控除される)、競馬のようなゲームでは、情報がオッズに反映するマーケット的な構造が組み込まれていて、単に勝率の高い馬を探すのではなく、勝率に比してオッズが有利な馬を選ばなければならない点が株式投資などとよく似ている。

 成長性が高く経営内容の良い会社でも、過剰な人気が織り込まれた株価で投資すると不利な投資になるし、逆に、内容の悪い会社でも、株価が十分以上に下がっているなら有利な投資対象になり得る。競馬にあっても、同じ内容の思考が必要だ。

 また、いかなるギャンブルでも、チャンス(有利な状況)で攻めて、ピンチ(不利な状況)で守るような抑揚の付け方が大切であり、「心の揺れ」に対するものも含めて自己コントロールが必要な点は投資と共通だ。ギャンブルは、投資にあって必要な心理の制御の良いトレーニングの場でもある。

 そして、ギャンブルは、物事が必ずしも自分の思い通りにならないことや、損失に耐えることのトレーニングの場ともなり得る。

 ギャンブルの種類によって、投資との共通点の在り処は異なるが、真剣に、しかしほどほどに楽しむギャンブルは、同時に投資のトレーニングにもなり得る側面を持っている。

 日本でのカジノ解禁は、賛否両論あるが、筆者は期待している。ただし、もちろん、カジノ関連ビジネスが利権化するようなことは望ましくないし、ギャンブル依存症への対策も重要だ。そして、何よりも、「ギャンブルとは、このような仕組みのもので、基本的に儲かるものではない」という教育的啓蒙を繰り返し国民に対して行うことが重要で意義深いと考えている。

 なお、世間で話題の「カジノの経済効果」については、個人的には「どうでもいい」というくらいに考えている。

ギャンブルの予算化

 ギャンブルに使うお金をどのように管理するかは、重要な問題だ。

 目下(もっか)、国内にはカジノがないし、カード・ゲームなどで多額の現金を賭けることは違法行為だ。また、筆者の場合、ネット証券に勤務しているので、株式のデイ・トレーディングやFXのようなギャンブル性の高いゲームに参加する事ができない。こうした事情の下、筆者が現実に参加しているギャンブルは競馬だが、筆者は馬券代を、「投資」ではもちろんなく、「教養娯楽費」だと考えている。

 ただし、この教養娯楽費の管理の考え方は、投資に似ている。理由は、以下のようなものだ。

(1)平均的に控除率分だけ負けると考えて、毎月の負けの期待値が分不相応でないか検討する。
(2)月間に全て負けた場合の最大損失が家計に影響を与えないかを検討する。

 大まかに言うと、「期待リターン」と「リスク」で、適正な馬券代を考えている。

 JRAの競馬は土曜日と日曜日に開催されている。平均して月に8日間の開催。例えば、一日に1万円馬券を買うことについては、一月に2万円負けると見てこの費用が楽しみに見合うか、自分の家計にとって分不相応でないかを検討し、一月に最大8万円負けることで家計に問題がないか、と考える。「損は嬉しくないけれども、まあ大丈夫だ」ということなら、この程度・この範囲内の馬券を買っていいということだ。

 一日の馬券で、平均2,500円損をする計算で、交通費等も含めて映画を一本観るくらいのコストだが、それに十分見合うくらい競馬を楽しめているならそれでよいと考えるのだ。

 しょせん、馬も自分の判断力も全幅の信頼をおけるものではないので、競馬で「大勝負」はしない。むしろ、少額の賭け金で自分の心理の揺れまで観察する事ができれば、「楽しみとして、儲かった」というくらいに考えることにしている。

  なお、筆者の馬券戦略及びその考え方については、いずれ機会があれば「トウシル」にも書いてみたいと思っているが、JRAが発行している月刊誌「優駿」に連載原稿を書いているので、読んでいただけたらありがたい。

 筆者の競馬の通算成績はもちろんマイナスだ。ただし、控除率ほど負けていないはずなので、投資で言うと「市場平均」に勝っている状態ということになり、結果には満足している。

 冒頭のハワード・マークス氏のメモには、「判断の妥当性は結果からは分からない」という重要な洞察が紹介されている。簡単な例を挙げると、株式投資であなたが何度か儲かったからといって、必ずしもあなたが用いた投資方法が妥当であることを意味しないということだ。株式投資の自慢話をする投資家には、しばしばこの原則が分からない人がおり、話を聞いていると辟易する。「判断方法の妥当性」は、大いに用心深く多方面から検討しなければならない。

 ギャンブルは投資よりも繰り返しの頻度が高いので、上手く嗜むと、こうした大人の洞察を早く得ることができる(かも知れない)。

 最後に、ギャンブルに臨む上で、また投資について深く考えることができる点でも必読の本を紹介しよう。エドワード・O・ソープ「天才数学者、ラスベガスとウォール街を制す(上)・(下)」(望月衛訳、ダイヤモンド社)をお勧めしたい。数学とギャンブルの天才の自伝だ。

 ソープは、数学者でかつ運用会社の経営者として株式市場(特に日本のワラント市場)に参加した人だが、ブラック・ジャックのカード・カウンティング法の考案者でもある。ギャンブルの世界の聖者を一人だけ挙げろと言われたら、筆者は彼を推す。彼は理論をギャンブルやマーケットの世界で徹底的に実践した人だ。

 本文を読むと、ブラック・ショールズの公式を故・フィッシャー・ブラック氏よりも先に独力で導いていたようだが、彼は、論文を書いて自慢することよりも、その式を含む理論をマーケットでのトレーディングで使うことを選んだ。ノーベル経済学賞よりも、ギャンブルの実践の方が彼には大切だったのだ。崇高なギャンブラー魂の持ち主だと言えよう。大いに学ぶべし!