※本記事は2010年1月15日に公開したものです。
「実質」が重要
お金の運用の目的はお金そのものの価値を守るのではなく、お金が象徴する価値を守り、願わくは育てることが目的だろう。そのためには、お金自体の価値を常に考えておく必要がある。
今年の1万円と来年の1万円は、その1万円で何ができるかを考えた時に、まったく同じ価値ではない。
これは物価の変動が激しい国に行けば痛感できるが、近年の日本のように物価が大きくは変化していない国に住んでいると、実感しないかもしれないが、近年はデフレに注目が集まっているし、貨幣価値の変化を「感じる」という人が増えているかもしれない。近年はお金の価値が高くなっているのだ。
他方、日本の過去には毎年物価が数%ずつ上がっていた高度成長期があった。もちろん給料も一緒に上がっていたが、1万円で泊まれたホテルが1万1,000円に値上がりしたり、映画代も1本300円が400円になり、あっという間に500円になったりというようなことが現実にあった。この頃は物価というものは徐々に上がっていて当然なのだという感覚があった。この場合、貨幣価値が下落しているということだ。
このように、将来のお金と現在のお金の価値は同じではない。
経済学には「貨幣錯覚」という言葉がある。
例えば、物価が年率で3%上がっている時に、収入が1.5%上昇した場合に、物価の上昇を無視して、なんとなく自分は儲(もう)かったような気がする錯覚のことだ。実際には、賃金と物価のズレは1年間で1.5%に過ぎないように思えるが、10年間続けば単利で計算しても15%にも上るのだから、これは相当にきつい。
お金を正確に判断するためには、この「名目」と「実質」のズレを意識しておかなくてはならない。まずは、これが大原則だ。
個人の場合、物価は消費者物価を見るのが一般的だろう。消費者物価は、おおむね生活費全体の上下を代表する指標だ。ただし、自動車の利用が多い人ならガソリン代を気にしなければならないだろうし、家賃のように大きな支出項目の動向は気にしておく方がいいかもしれない。
物価の予測は難しい
率直に言うと、将来の物価を正確に予測することは難しい。物価を意識してお金に関する判断を行うべきだという大原則は文句なく正しいのだが、その正確な実行は簡単でない。
例えば、近年の日本はおおむねデフレの環境下にあるが、これを1990年代の前半くらいに正確に予測できた人は少ないのではないか。筆者も、この頃ファンドマネージャーや証券マンとして金融・経済に関わる仕事をしていて、普通の人よりは経済指標をよく見ていたわけだが、日本の財政赤字の拡大などを見て将来はインフレになる可能性が大きいのではないかと漠然と考えることが多かった。「多かった」というのは、経済を見ていると、インフレになると思えることもあれば、デフレになると思うこともあるからだ。筆者の知る限り、数年から10年、20年といった単位の将来物価の予測に決定的に有効な方法はない。
十分有効な方法がないのに、「将来のインフレ率に注意して、実質価値でものを考えろ」とばかり言うのは、ある種、罪つくりなアドバイスかもしれない。現実には物価を心配するあまり、あるいは物価変動に対する抵抗力に過剰な期待を抱いたせいで、不必要あるいは偏った対策をとって、かえって損をしている人がしばしばいるからだ。
将来インフレが起こった時に自分のお金を追いつかせるために、「お金の扱い方」をどうするかということは大切なことに間違いない。しかし、どうも世の中を観察していると、「インフレ」を逆手にとって脅し文句に使うことが多いので、これには注意したい。
読者は、株式や投資信託を売りたい金融機関の人間から、こんな話を聞いたことはないだろうか。
「現在はデフレかもしれませんが、やがてインフレになった時に備えて、お金を増やしておかないと大変なことになりますよ」
「将来インフレになった時にインフレに追いつくだけのお金がないと、生活が維持できなくなります」
確かにおっしゃる通りだが、そもそもインフレというものがどういう状態で起こってくるかと考えると、一つは景気がよくなって消費が増え、みんながモノをたくさん欲しがるためにお金を使おうとして、それによって物価が上がり、企業の儲けも増え、社員の給料も上がっていくというような状況だ。もちろん、その伸びが物価上昇に比べて低い場合も考えられるが、収入も増えることが多いだろうから、その部分を加味して考える必要がある。純粋な金利生活者、年金生活者のような人と勤労者とでは、お金の運用に関して、インフレに対する対策は異なったものになるべきかもしれない。
インフレが起こってから対応してはダメなのか?
少し見方を変えてみよう。インフレに対するリスクはもちろん考えなくてはいけないが、過剰に恐れる必要はないのではないか。たとえば、マイナス1%のデフレが、いきなり翌年プラス10%のインフレになるということは滅多にない。変化が徐々に起きるなら、対応は変化が起き始めてからでいいかもしれないし、変化が起きる前に過剰な対応をするとかえって損かもしれない。
将来というのは不確かなものなのだ。もちろん、物価動向が経済的な損得に重要な影響を及ぼすことは間違いないので、物価動向はよく見ておくべきだ。長期的な物価予想は難しいが、短期的には物価の予想が「全くできない」というわけではない。
現実的には物価の変動に対してどう対応すればいいのだろうか。
これは、個人の置かれた環境によって変わってくる。例えば、多額(数十億円以上)の資産を持っていて、この換金や収益で食べていこうというような人の場合は、物価変動をある程度ヘッジできる金融資産・実物資産の運用を考える価値があるだろう(ただし、方法は状況による。ワンパターンでOKということはない)。
一方、さしたる資産を持たない多くのサラリーマンや自営業者(著者も含まれる)の場合は、収入と支出、資産運用をそれぞれに最適化して、物価変動をある程度そのまま受け入れるのがいいだろうし、それ以外にやりようがない。物価に関しては「よく見ておく」ということでいいのではないだろうか。
あえてもう一歩踏み込むとすると、自分と同じような立場と経済力の人々と比較した場合に、相対的な経済力が低下しないようにしておけば、将来の物価や景気の変動をある程度吸収できるだろうというような考え方はあるだろう。例えば、物価と賃金の双方が上がるにせよ、下がるにせよ、相対的な経済状況が悪化していなければ、実質的な購買力は悪化していない可能性が大きい。一種のベンチマーキングだが、ここまでやらなくてもいいだろうと個人的には思う。
物価が生活に直接的かつ致命的な影響を及ぼすケースはひどいインフレだろう。例えば、年間に2割も3割も物価が上がるような状況では、金融資産の実質価値は3~4年で半分以下になってしまいかねないし、さらにひどいハイパーインフレーションになると、金融資産の価値がほとんどゼロになってしまう可能性がある。
先にも述べたように、デフレがいきなり2ケタ%の大幅なインフレになることはないが、インフレ率がある程度以上に上昇してきた場合には、金融資産を実物に替えたり、外国に資産を逃避したりする必要が生じる場合があるだろう。
現在の日銀の物価に対する認識は0~2%のわずかなプラスの物価上昇が望ましいということのようだ。この目標に対して、年率4、5%の物価上昇が発生するようになったら、これは、日本の物価がコントロールを失いつつある状況だと考えてもいいだろう。こうした物価上昇を抑えるためにはかなりの金利上昇を伴う金融引き締めを行わざるを得ず、その際に日本の株価や不動産の価格にも悪影響が出るだろうから、海外資産を増やすのは理にかなっている。
日本の物価上昇に歯止めが掛からないと目される場合には、円の為替レートが相当に円安に振れる公算が大きい。深く考えた数字ではないが、1年間に4%の物価上昇と15%以上の円安が同時に起こった場合には、日本の金融資産に対する警戒モードに入るということでどうだろうか。
ただし、金利が相当に上昇してインフレに収束の気配が出てきた場合は、日本の長期債券が格好の買い場になる。これも、将来もしも起こることがあれば、生涯に何度もない大儲けが狙えるチャンスというべきパターンの一つなので付け加えておく(現実に役には立ってほしくないが、長い間にはそのようなこともあるだろう)。
一方、2009年11月に政府が正式表明したように、現在の日本はモノの価値が下がる「デフレ」下にある。大まかに言うと、物価が下がっている以上、個人はモノを急いで買わなくてもいいということが言える。
例えば、昨年ジーンズをまとめ買いしなくても、今年になってから買えば、もっと安かったというようなことがあるから、物価が下がっていると商品の買い控えにつながる。それは個人の買い物としては正しい行動だが、経済全体にとっては大打撃となる。
モノが売れなければ、あるいは値下げしなければ売れない状況では、企業の収益が減り、ひいてはそこで働く社員の給料も下落傾向になる。すると今度は生活が心配になるので、お金が消費に回らなくなり、ますます値下げを加速しかねない。そして、経済全体が収縮してしまう。
デフレ自体は困った現象で、これに対する対策は必要だが、デフレ自体はなかなかしぶといものなので、インフレに対して今からコストを掛けて保険をかけておかなければならないというわけではない。まだ様子を見ていればいい。
あえて言えば、“悪徳金融業者”が個人から手数料を荒稼ぎしたいがために、将来のインフレリスクをことさら強調することがあるので注意してほしい。彼らの言葉に過剰反応して、まんまと騙(だま)されることだけは、くれぐれも避けたい。
この点について、もう少し説明しておこう。
将来に対する不安を喚起しておいて、それに対する解決策があるかのようにモノを売るというのは、特に利幅の大きい怪しいものを売る時には、よく使われるセールスのテクニックだ。健康食品、化粧品、生命保険などが時に該当するが、これらの共通点は、売り手の利幅が非常に大きな商品であること、セールス行為が絡まなければ売れないこと、普通の人にはほとんど不要であることだ。いずれも「霊感のつぼ」と同じパターンである。
金融商品の販売にも、そのような脅しまがいのセールスが横行しており、将来の大インフレはその材料にしばしば使われている。日本の国家財政が間もなく破綻するかのような事を言って、「あなたが今持っている円資産は紙クズになる」といった恐怖感をあおった上で、「だからこそ海外で資産運用しましょう」などと怪しい投資話や手数料のバカ高いプライベートバンクの利用などを持ちかけるようなパターンだ。
十分気をつけてほしい。
【補足】
2010年なので、アベノミクス以前にインフレリスクについて考えた原稿で感慨深い。「書きながら、考えているな…」という感じがする文章だ。「インフレリスク」は「老後不安」と並んで、運用業界にとって顧客を脅して動かす際に使われる有力な商材だ。しかし、老後不安に対しては「計算」で対処できるし、インフレリスクに対してはこの文章にある通り、インフレが起こり始めてから対処すればいいので、共にひどく恐れる必要はない。「適切な大きさのリスクを取って、なるべくお金を増やせばいい」とだけ考えて、金融マンの脅しを伴ったセールスは冷ややかに無視するといい。(2020.1.6 山崎元)
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