職業としてのファンドマネージャー

 私はファンドマネージャーという職業が好きだ。これまで多数転職して複数の仕事に関わってきたが、最も愛着がある仕事はファンドマネージャーだ(評論家ではなくて、読者には申し訳ないが)。今はまだ死にたくないが、死ぬ前に「あなたの職業は何でしたか?」と問われたら「ファンドマネージャーでした」と答える予定だ。また、ファンドマネージャーの仕事に直接的に関わらなくなってからも、多くの問題を「ファンドマネージャーならどう考えるか?」と自問しつつ考えてきた。ところが、職業としてのファンドマネージャーと、これを取り巻く諸々の環境は、現在、いくつかの点でかつての私の理解と異なるものに見えており、さらに異なる方向に変化しつつあるように見える。

 本稿では、ファンドマネージャーという職業について、私が「思っていたのと違う」と考える7つの点について取りあげてみたい。「違い」の原因には、単に私の勘違いや理解不足もあるし、ビジネス環境の変化もある。内容的に個人的な感想に及び、恥ずかしい話もあるが、正直・率直に書くことにする。

 もっとも、「勘違い」にも印(しるし)に例えると「△」〜「×」程度の差があり、将来、以下の「勘違い」のいくつかをさらに訂正することがあるかもしれない。いずれにせよ、読者が資産運用について考えたり、運用ビジネスの今後について考えたりされる際のご参考になると幸いだ。

 

勘違い1:年金運用は成長産業だと思っていた

 ファンドマネージャーにとって「年金」と「投資信託」が仕事としての二大ジャンルだ。筆者は両方の分野でファンドマネージャーの経験がある。

 さて、1990年代後半くらいまで、筆者は、日本の年金運用は21世紀に入っても、確実に成長するビジネスだと思っていた。経済成長率は低下し、少子化が進むとしても、当面高齢化は進むので、高齢期の生活を支える年金の重要性は変わらないだろうから、かなり長い期間に年金運用のビジネスは成長し続けると考えたのだ。

 しかし、1990年代のバブル崩壊と運用の低迷、さらに企業年金の母体企業の年金に対する理解の進歩で、日本の年金運用業界は、意外にも早く曲がり角を迎えることになった。

 象徴的なイベントは「代行返上」だった。代行返上は、平成14年(2002年)に施行された確定給付企業年金法で認められるようになった。しかし、その後、代表的な企業年金制度であった厚生年金基金が国に代わり一部運用していた厚生年金の資産を国に返上して、自らの積立金だけに運用対象を縮小する行動を取った。運用会社にしてみると、大きくなると思っていたマーケットが、いきなり縮んだのだから驚きだった。

 企業は年金運用のリスクに耐えられなくなり、代行部分を返上したわけだが、考えてみると、自社の確定給付年金についても、リスクを取って運用することが経営的に合理的だとは言い難い。事業会社は運用が専門ではないのに、年金資産の運用の成否に業績が振り回されるのだ。多くの企業が厚生年金基金の代行資産を返上して、確定給付企業年金基金に編成し直し、厚生年金基金を解散して確定拠出型年金に移行した。

 他方で、確定拠出年金のビジネスは拡大しているが、運用会社にとってこのビジネスの実質は投資信託のビジネスに近い。

 振り返ってみると、筆者は、1990年代半ばには、企業にとって確定給付型の企業年金のリスクテイクが合理的ではないことや、厚生年金基金の「代行部分」がレバレッジ効果を持って運用リスクの拡大に作用していることの問題などを理解していた。しかし、それでも企業年金の運用ビジネスは拡大し成長するのだろうと、漠然と過去の延長線上に将来があるようなイメージに囚われ将来を見ていた。

勘違い2:インデックスに勝てないがアクティブ運用は残ると思っていた

 筆者は、一貫してアクティブ・ファンドのファンドマネージャーだった。だが、かなり早い時点で、アクティブ運用がインデックス運用に勝てないことを理解し、実感した(最初の運用会社の先輩達のおかげだ)。運用手数料とファンド内の売買コストの影響が大きいが、商品としてのアクティブ・ファンドは、

(1)平均的にはインデックス・ファンドに負ける

(2)アクティブ・ファンドに投資することは経済合理的ではない

(2)については、相対的に優秀なアクティブ・ファンドを(事後的にではなく)事前に選ぶ方法がないためである。これは、投資理論の言う「市場の効率性」とは無関係に成立する頑健な事実だ。しかし、(A)アクティブ運用自体には工夫の余地が多々ありそうに見えたし、(B)アクティブ運用の方が面白いと思う人は一定比率以上残りそうだった。(C)さすがにアクティブ・ファンドも運用フィーを現実的・競争的な水準まで下げるだろう。このため、仕事としてのアクティブ運用は将来も安泰だろうと思っていたのだった。

 現在もアクティブ・ファンドは多数残っているので、「勘違い」の結論を出すのは時期尚早であるかもしれない。しかし、(A)は意外なくらい進歩がなかったし、(B)については運用業界の外から眺めてみると大いに疑問がわくところだった。(C)については投資信託でいうと1990年代半ばにアクティブ・ファンドはむしろ運用手数料が上昇し、現在もおおむねその水準にあり、運用商品として他人に勧められるようなレベルのものになっていない。

 (3)については、運用管理の手数料引き下げを望みたいところだが、ビジネスとして考えると、ブランド品は値下げが難しいのと同様のマーケティング戦略上の問題があり、運用会社にとって簡単ではない。アクティブ運用について、筆者はその仕事が好きであったために、希望を将来に投影し過ぎていたように思える。
 

勘違い3:投資理論の応用は、進歩し続けると思っていた

 筆者は、投資理論の研究をする部署にいたこともあり、世界的に標準となっている投資分析のソフト開発会社に勤めていたこともあるため、広い意味での投資理論の応用に積極的だった。おおよそでいうと「クオンツ・アクティブ」と称されるようなスタイルの運用をしていたとイメージしてもらっていい(そもそも「クオンツ」と「ジャッジメンタル」の区分は無意味だと思っているのだが、その種の話はまた別の機会に取りあげよう)。

 日本の運用業界が「モダンポートフォリオ理論」を大規模に取り入れたのは1980年代半ばくらいからで、理論としてはCAPM(資本資産価格モデル)、APT(裁定価格理論)、ツールとしてはマルチファクター・モデルなどが実務の場で使われ、その後オプション価格理論を中心としていわゆる「金融工学」が流行り、1990年代には「行動ファイナンス」が注目された(個々の専門用語にご興味のある向きは、証券アナリスト試験の参考文献を参照されたい)。

 筆者は、新しい理論が海外から導入され、これを新しい運用方法のいわば「ネタ」として活用していく流れは強化されていくものなのだろうと思っていた。しかし、行動ファイナンスの後に画期的といえる新研究がほとんど登場せず、運用現場のファンドマネージャーの理論やツールに対する理解・習熟が、筆者が思っていたようには進まなかった。

 前者について、たとえば近年の「証券アナリストジャーナル」には、運用方法のネタになるような理論研究の論文はほとんど載らず、企業のガバナンスや金融ジェロントロジー(ジェロントロジーの訳語は「老年学」)といった業界内のオピニオン交換のようなテーマが増えている。また、後者については、ファンドマネージャーの投資理論に対する理解やポートフォリオのリスク分析に対するスキルなどは、1990年代より後退しているかもしれない。

 なお、AIや高速トレードなどは、主として機械の進歩であって、運用理論や運用方法自体の進歩ではないと筆者は理解している。研究分野ごとに研究が進歩し盛り上がる時期と、そうではない時期があるのかもしれない。また、投資理論の応用という意味では、「理論で儲かるものではない」という経験を人々が積み過ぎてしまい、情熱が薄れたのだろうか。

 今の筆者は、肩すかしを食ったような気分で少々残念に思っている。

勘違い4:ブローカーよりもクリーンな仕事だと思っていた

 マーケットの世界では、注文を出す顧客側は「バイサイド」と呼ばれ、注文を受ける証券会社(ブローカー)側は「セルサイド」と呼ばれる。ファンドマネージャーはもちろん「バイサイド」だ。今はそう簡単ではないが1980年代後半では象徴的にいうと、接待をする側は「セルサイド」であり、接待された御礼に注文を出すのが「バイサイド」だった。ビジネス上、精神的にはバイサイドが優位にあるが、より儲かるのはセルサイドである場合が多かったように思う(もちろん個人差はあるが)。

 バイサイドで仕事をされた経験のある方はおわかりいただけると思うが、バイサイドから見て、セルサイドの仕事は「汚く」見える(逆に、セルサイドの人はバイサイドの人を「のろま」だと思うことが多い)。かつての筆者は、バイサイドは自分の運用パフォーマンスの向上と顧客のメリット・喜びが重なる良い仕事だと素朴に思っていた。

 しかし、後年、バイサイドがやっていることは、提供できるかどうか本当はわからないリターンを顧客に期待させつつ手数料を取り、リスクや結果は顧客に押しつける行為なので、「顧客に取り入って、手数料を稼ぐ」というビジネスの本質はセルサイドと同じであることに気づいてしまった。

 運用の世界にあっても、職業に貴賎(きせん:身分の高い人と低い人)はないのだった。現在、どちらも必要な仕事だが、職業倫理としては、自分は顧客から過剰な利益を得ているのではないかと常に自問することが必要だろう。

 当然のことを理解するのに随分時間がかかったものだと、われながら恥ずかしい思いだ。

 

勘違い5:バイサイドの立場は強いと思っていた

 ファンドマネージャーは、投資する側なので、投資先企業の経営者に対し概して強い立場で面会することができる。証券会社からだけではなく、投資先あるいは投資候補先からも「下にも置かない扱い」を受けることができる職業だ。

 かつて勤めた外資系運用会社のイギリス人ファンドマネージャーが「ファンドマネージャーはいい商売だよ。調査を名目に旅行もできるし、相手が社長でも会うことができて、頭を下げなくていい」と言っていたのを筆者は覚えている。現在もそうなのかもしれないが、ファンドマネージャーが企業に丁重に扱われる時代はピーク・アウトしたのではないだろうか。

 近年は、インデックス運用の拡大でファンドマネージャーの意思決定の幅が狭まっている。また、年金基金のような運用資金のスポンサーが株式の議決権行使にあれこれ口を出すようになってきた。企業の経営者から見て個々のファンドマネージャーの重要性が低下しつつあるのではないだろうか。

 もっとも、この点は筆者にとってあまり重大な問題ではない。

 その理由は、筆者が、正直なところ、アナリストやファンドマネージャーが、投資先の企業経営者やCFO(最高財務責任者)にインタビューしたりする行為が、運用パフォーマンスの改善にたいして有効だと考えていないからだ。ビジネスの機微に触れるような内容を、その事業を営む会社の経営者と対等に話せるとか、まして相手を評価できるとか思うのは、多くの場合、僭越(せんえつ)な勘違いだろう。

 筆者の知る限り、昔からファンドの運用はこのような気持ちのいい勘違いに浸りながら上手くできるような甘い仕事ではない。ただし、こうした勘違いの様は対素人顧客向けにはなかなか有効な場合もあるので、ビジネスは複雑だ。

勘違い6:残高当たりのフィーは合理的だと思っていた

 運用の報酬は、「運用資産額×運用期間」に比例して、通常年率のフィーの形で「資産額の○.××%」といった具合に決まっている。これは、業界の慣行でもあったし、「運用のメリットは年率のアクティブリターンによって、資産額×運用期間に比例して顧客にもたらされるのだから」妥当な決め方なのだろうと筆者は長年思ってきた。

 しかし、よく考えてみると、ファンドマネージャーの仕事は運用金額に比例して大変になる訳ではないし、仕事で大変なのは主としてファンドの立ち上げ時期であって、ポートフォリオができてしまうと稼ぐのはポートフォリオであり、ファンドマネージャー本人は意外に暇だということに気づく。これは、ファンドマネージャーに限らず、証券マンやFP(ファイナンシャルプランナー)、ロボアドバイザーのような広義の運用アドバイス全般にいえることだ。

 残高と期間に比例するフィー方式は、今流行のサブスクリプション・ビジネス的でサービスの売り手側には好都合な仕組みだが、サービスの実態と供給コスト構造には適合していない。

 たとえば、個人向けの運用サービスは、ポートフォリオ組成と管理だけのコストに近い公募の投資信託やETF(上場投資信託)などが利用可能であれば、「正しいやり方を教えること」だけで実現可能だ。
 

勘違い7:ファンドマネージャーは長期的に有望な仕事だと思っていた

 金融資産を運用したいと思っている顧客に取って必要なものは、「正しい運用の方法を知ること」と「運用の部品(たとえばETF)が利用可能であること」の2つであって、「継続的に運用判断を提供してくれる専門家」ではない。

 端的に言って、ポートフォリオを組成して管理・保管するサービスでは今後もフィーを取り続けることができるとしても、継続的な「運用判断」・「運用アドバイス」といったサービスに対する価格を保つことがこれからは難しくなっていくのではないだろうか。前項の「残高ベースのフィーが難しくなる」という事態が同時に進行する可能性もある。

 もちろん、すぐにかつ全面的にそうなるということはないだろう。しかし、ファンドマネージャーの仕事の本質は「運用判断の提供」なのだから、これに対して高いお金を取ることがどんどん難しくなるのだとしたら、ファンドマネージャーは長期的に有望な職業だとはいえないのではないか。ファンドマネージャーは、息子や娘にも勧めていい職業ではないかと筆者はこれまで思ってきたのだが、真剣な再考が必要なのかもしれない。
 

<反省、追記>

 これまでの自分の勘違いを振り返ってみると、将来を見るための情報や知識を案外持っていながらも、過去の延長線上での予測形成、希望的な観測や、思考の不徹底などで、適切な認識を早く持てなかったことがわかる。

 将来について予測するには、自分の先入観や好き嫌いを意識的にリセットして、徹底的に考えてみなければならないことが改めてわかった。投資にあっても、人生にあっても、これは同じだろう。

 一職業人としての筆者は、今後も資産運用の仕事に関わっていくつもりだが、人生が長いことを考えると、もう一分野「専門」と言える領域を作らなければならないのかも知れないと考えている。