「5年待てば安心」のはずだった
都内郊外に暮らす夫婦(夫Aさん72歳、妻Bさん71歳)は、老後の生活を見据えて、年金の受給を5年間繰り下げました。
夫婦が繰下げ受給を決めた理由は三つありました。
一つは、夫婦ともに趣味はテニスで、体力や健康には自信があったこと。二つめは、預貯金が約2,500万円あり、また、70歳まで嘱託やアルバイトで、夫婦で月20万円ほどの収入の見込みがあったこと。そして三つめは、夫婦には子どもがいないため、老後に頼る人がいなかったことでした。
夫婦の支出は月約28万円です。65歳から70歳まで、月約20万円の収入があったため、毎月8万円ほどの貯蓄を切り崩しながら生活していました。
総務省の「2025年(令和7年)家計調査報告」(※)によると、65歳以上の夫婦のみの無職世帯の場合、支出の平均は約29万6,000円でした。
(※)総務省「2025年(令和7年)家計調査報告」
この数字を見ると、夫婦は平均よりも少し引き締めた生活だったと言えます。将来の安心を優先し、あえて今は倹約する、そんな計画でした。
年金は、繰り下げることで1カ月あたり0.7%ずつ増額されます。5年間繰り下げたことで、貯蓄は500万円近く減ってしまいましたが、年金は夫婦で24万円から約34万円になりました。
これまで節約生活を続けてきた夫婦にとって、十分だと思える金額でした。5年間で取り崩した分も、「長生きすればいずれ回収できる」と考え、今後は後回しにしてきた楽しみを少しずつ取り戻し、悠々自適な老後を送るつもりだったそうです。
正しかったはずの選択が「後悔」に変わるとき
しかし、受給開始から約1年後……想定外の出来事が起こります。妻Bさんが、自宅で転倒してしまったのです。
このアクシデントをきっかけに、Bさんは日常生活に介護が必要な状態となってしまいました。デイサービスや訪問介護などの介護サービスに、毎月2万円ほどかかります。また食事も買ってきて済ませることが増え、食費も上がりました。
さらに、金銭面だけでなく、生活の自由度も失われました。
まず、夜間のトイレ介助などは夫Aさんが担うことになり、Aさん自身の体力的な負担が一気に増しました。加えて外出のハードルも上がり、旅行どころではありません。日々の生活を回すことで精いっぱいだったといいます。
「こんなことなら、年金を1日でも早く受け取って、元気なうちにもっと夫婦で楽しんでいればよかった」
Aさんはうなだれながらそう話してくれました。
年金繰下げ受給の盲点
年金の繰下げ受給は、遅らせた分だけもらえる年金が増える、制度としてはとてもシンプルです。長く生きるほど得をする、それは間違いないでしょう。
ただし、この前提には見落とされがちな条件があります。それは、「健康が保たれていること」「支出が想定したとおりであること」です。
現実には、そのどちらも確定できることではありません。特に介護は、支出の増加だけではなく、生活の自由度や時間の使い方などさまざまな影響を及ぼします。
お金が増えることと人生の満足度が高まることは、必ずしも一致するわけではないのです。
繰下げが有効なのは
では、繰下げ受給は避けるべきなのかというと、そんなことはありません。
例えば、
- 繰下げ期間中も安定した収入がある
- 貯蓄が十分にあり、取り崩すことに不安がない
- 生活水準を無理に下げずに済む
といった条件が整っていれば、繰下げのメリットは生かしやすくなります。
一方で、無理な節約を前提としているなど、「将来のために今を我慢する」設計になっている場合は注意が必要です。その我慢を回収できる前に、状況が変わってしまう可能性があるからです。
繰下げを選ぶ前に
年金を繰り下げるかどうか決める上で、まず把握しておきたいのが「健康寿命」です。
厚生労働省によると、令和7(2025)年における日本人の平均寿命は、男性81.35歳、女性87.33歳(※)となっています。
(※)厚生労働省「令和7(2025)年簡易生命表の概況」
一方、健康寿命の平均は男性72.57歳、女性75.45歳(※令和4年の数値)となっていて、平均寿命より10年ほど短いことが分かります。
(※)厚生労働省「健康寿命の令和4年値について」
健康寿命は「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」です。「元気に自由に動ける時間」は私たちが思っているよりも限られているかもしれません。
年金をいつから受け取るかを考える際、「何歳まで生きるか」だけでなく、健康寿命を指針とすることも一つの考え方です。
また、日本の公的年金制度は、1階部分の「国民年金(基礎年金)」と2階部分の「厚生年金」を合わせた2階建ての構造になっています。年金の繰上げ受給は、どちらもセットで繰り上げなければなりませんが、繰下げ受給は別々に行うことができます。
生活の基盤となる分は65歳から受給し、どちらか一方は繰り下げる、このような設計も可能です。「妻のほうが元気で長生きしそう」という夫婦でしたら、妻の年金だけ繰り下げることも有効でしょう。
年金は「増加率」だけに注目しない
年金繰下げは、計算上は合理的な選択です。しかし、人生プランが寸分の狂いもなく進むとは限りません。将来を正確に見通すことができない以上、長生きリスクだけを重視しすぎずに、「想定外の出来事が起きても続けられる設計になっているか」という視点は欠かせないでしょう。
繰下げ受給を選ぶ人は増えているものの、全体で見るとまだまだ少数派です。しかし、70歳までの就業機会の確保が事業主の努力義務となったことで、今後は増えていく可能性があります。
お金は安心をもたらしますが、それだけで人生の満足度が決まるわけではありません。だからこそ、「どれだけ増えるか」だけに注目するのではなく、その選択が自分たちにどう影響するのか、時間の使い方や予期せぬ出来事が起こることも含めて考えてみてはいかがでしょうか。