世界三大バブル(空前の投機ブーム)とは!?

 歴史上の世界三大バブル(空前の投機ブーム)とは、チューリップ・バブル、南海泡沫事件、ミシシッピ・バブルの三つである。

チューリップ・バブル 1630年ごろ(オランダ)

 世界初のバブル経済で、トルコからもたらされた球根が栽培され、高級な花として珍重されるようになったことがきっかけ。

南海泡沫事件 1720年ごろ(イギリス)

 有力政治家が設立した「南海会社」を舞台に起きた事件で、バブルという言葉が使われたのはこの事件が初めて。

ミシシッピ・バブル 1720年ごろ(フランス)

 ミシシッピ・バブルの首謀者はジョン・ロー。ローは、膨大な借金を国債発行で賄っていた政府の救済策として、ミシシッピ会社の株式売却を行った。ローは販売促進のために、購入代金を国債で支払えるようにした。

 これは債務と株式を交換する「債務の株式化」(Debt Equity Swap)という現代でも最先端の手法だが、負債と資産の両建て経済の発明者がローだったのだ。

 歴史を振り返ると、市場は常に投機的な「バブル」と「バースト」を繰り返してきた。バブルが膨張するたびに「今回は違う」と信じられ、その後「バースト」を迎える。そして今回も同じだったとなる。バブルに共通する分母は何か。

 例えば、膨大な額の信用の積み上がり、金融政策の緩み、住宅価格の高騰、不動産投機、レバレッジの爆発、アマチュア投資家による投機熱の高まりなどが挙げられるだろう。

 投資情報を提供する米リアル・インベストメント・アドバイスによると、投機のサイクルは次の通りだ。

1)バリューレベルで投資家がマーケットに参入 → 2)株価が上昇 → 3)変化が始まる → 4)投機家がIPO(新規公開株)に目を止める → 5)初心者投資家がマーケットに参入 → 6)株価が上昇 → 7)ポジティブ・フィードバック・ループ、株価は上昇するのみ → 8)株価の上昇が心理的に強化される → 9)陶酔感が広がる → 10)レバレッジをかけた投資家が増える → 11)陶酔感が熱狂になり、クレジットが拡大 → 12)熱狂によりリスクの許容度が高まる → 13)リスク許容度の高まりによって詐欺や相場操縦が横行する → 14)マーケットがクラッシュし、投機が一掃される → 15)新たな規制とともに政府が介入 → 16)投資家は全てのリスクを避ける

 バブルの熱狂とその崩壊の事例は世界中の金融関係者を惹きつけてやまない。スコットランドのジャーナリスト、チャールズ・マッケイは1841年に出版された著書『狂気とバブル──なぜ人は集団になると愚行に走るのか』でバブルの逸話を取り上げている。

 マッケイ氏は「いつの時代にも、その時代ならではの愚行が見られる。それは陰謀や策略、あるいは途方もない空想となり、利欲、刺激を求める気持ち、単に他人と同じことをしていたいという気持ちのいずれかが、さらにそれに拍車を掛ける」と述べている。

 この『狂気とバブル』は、途方もない狂気や荒唐無稽な計画、大衆をけむに巻く詐欺事件など、洋の東西を問わず、どんな時代においても、いかに大衆が無分別なヒステリー症にかかりやすいかを示している。大衆の狂気、群衆の行動、人々の愚行など、なぜ人は集団になると狂うのか。

 チューリップがコンスタンティノープル(東ローマ帝国の首都、現在のイスタンブールの前身)から西欧に入ってきたのは16世紀中ごろだった。チューリップはターバンを意味するトルコ語に由来する。オランダやドイツの資産家の間でチューリップ人気が沸騰し、法外な価格で取引されるようになる。

 1630年代に入ると、チューリップを収集していない資産家は「趣味が悪いのを証明しているようなもの」とまで言われるようになった。

 こうしたチューリップの人気はその後、中産階級にも広がり、1636年にはアムステルダムにチューリップ取引所が設立され、珍しい種類のチューリップの需要が急増、ロッテルダムやライデン、アルクマール、ホールンなどの主要な町には定期市が設けられるまでになる。

 株式仲介人たちもチューリップを取り扱うようになり、チューリップ成金が急増する。このチューリップへの熱狂は永遠に続き、世界中の金持ちがオランダにチューリップの注文を出し、当時、オランダからは貧乏人が誰もいなくなる、そんな想像さえめぐらされるほど好景気に沸いていたそうだ。

 そのうち、貴族だけではなく、市民、農民、商人、漁師、使用人、洗濯婦までがチューリップに投資をし始める。

 しかしこうした熱狂は永遠には続かない。1637年には、天文学的価格になった球根の新たな買い手を見つけることができなくなり、球根の価格が下落しはじめた。在庫を抱えていた投機家は一文無しになった。

 それまで安全な投資先だった球根の価格暴落はオランダ国民に衝撃を与えた。それは決して元の高値には戻らなかった。価格の下落によって破産寸前まで身を滅ぼす人や、取り返しがつかないほど財産を失ってしまう人もいた。

天才科学者ニュートンの前では禁句となった南海会社

 チューリップ・バブルから約100年後の1720年夏、万有引力の法則を発見した近代物理学の父祖、アイザック・ニュートンは、財産の大部分を再び「南海会社」の株式に投資しようとしていた。

 企業としてほとんど利益は出ていなかったが、米大陸におけるスペイン植民地からの奴隷や黄金を輸送する貿易ルートの独占権をイギリス政府に認められており、国際貿易の拡大とともに確実に成長すると期待されていた。

 1720年、イギリス政府が南海会社の株式を売り出すと、爆発的な人気を集め、この動きに乗じようと株式市場は狂乱状態となった。当時のイギリス国王ジョージ一世が役員の一人に名を連ねたことも投資家の信頼を集めた要因だった。南海泡沫バブルとはこの投機ブームによる株価の急騰と暴落のことで、泡沫=バブルの語源となった出来事である。

 天才科学者のニュートンは南海会社株に初期段階で投資を行っていた。それからわずか2カ月で持ち株の価値は2倍になった。ニュートンは市場が投機の熱狂の初期段階にいることに気付き、それが最終的には悪い結末を迎えることを察知していたため、早めに利益を得て自分の持ち株を清算し大金を稼いだ。しかし、バブルの本当の怖さはこの後にある。

 ニュートンが市場から退場したのち、南海会社株は伝説的な上昇を経験することになる。バブルが膨らみ続ける中、友人や知人の財産が日々増えていくのを見ていたニュートンは、いてもたってもいられず再び株式市場に飛び込んだ。

 それが株価のピークだった。9月には南海会社で詐欺スキャンダルが勃発すると、株価はあっという間に90%下落した。しかもニュートンは株価が急落する中で、やってはいけない「ナンピン買い」まで行っていたそうだ。

 ニュートンによる南海会社への投資を扱った2018年の論文「Newton's financial misadventures in the South Sea Bubble(ニュートンの南海バブルにおける財政的不運)」によると、ニュートンはこの世界三大バブルの一つである南海会社の破綻によって、現在の価値にして約2,000万ドルに相当する損失を被ったと指摘している。

 この大失敗にニュートンは深く傷つき、生涯人々が自分の前で南海会社の名を口にするのを許さなかったとも言われている。

南海会社の株価の推移(1718年12月から1721年12月まで)

南海会社の株価の推移 (1718年12月から1721年12月まで)の図
出所:ゼロヘッジ、マーク・ファーバー、ジェレミー・グランサム

 このニュートンの投資で注目すべきことが二つある。一つは、ニュートンが再エントリーした際、ほぼ全ての手持ち資産を南海会社株に注ぎ込んだということ。そしてもう一つは、株価が急落する中で「ナンピン買い」まで行ったことだ。

 当時、造幣局長官も務めていたニュートンは、金融や市場に精通している人物であったと思われるが、そうした人物でもバブルに踊り、バブルに翻弄(ほんろう)されてしまうのだ。

 南海バブルで大きな損失を負ったニュートンは次のように言ったそうだ。

「天体の動きは計算できるが、人の狂気は計算できない」